三、転機
十月 三十一日
―――――――朝。
学校へ続く通学路に、翔の姿があった。
「はぁあ〜〜〜〜」
朝の通学路。見慣れた顔がちらほらあり、そこかしこから挨拶をされる。それらを返しながら、翔はゆっくりと学校へ向かっていた。
大きく欠伸をし、背伸びする。そして、何気なく横を見た瞬間―――――苦笑した。
「………おや? 君か」
「おや? じゃねぇ。お前、相変わらず神出鬼没だな」
いつの間にか、隣に絵梨が立っていた。いつもどおり、眠そうな眼差しながらもくっきりとした目で翔を見上げ、ほくそえんでいる。その口には、いつものパイポがくわえられていた。
一緒に登校しても、茶化されることがなかった。何となくいつも一緒の時間になるし、それが当たり前のようになっていたからだ。
彼女もそうなのだろう、気にした様子もなく隣を歩く。横目でそれを見て、翔は気になっていたことを尋ねてみた。
「なぁ、水村。………一つ、聞きたいんだが?」
「ダメだ」
たった一言。それで、翔は悟る。どうやら彼女は、翔に聞かれたくないらしい。
「ならいい」
無理に聞く気にもなれず、聞いても答えられないのなら意味がないと思い、翔はそう答えた。その答えを聞いて、絵梨が微笑を浮かべる。
「………前から思っていたが、君は、付き合いやすい」
「どうも」
お決まりの文句――――――互いに笑いながら、学校へと向かった。
下駄箱を開ける。そこに手紙があるわけも無く、翔は溜め息を吐いた。期待しているわけではないが、寂しい。
理由――――それは、絵梨にあった。
「………またか」
辟易したように聞こえる声―――隣の下駄箱の前で、露骨に顔をしかめる絵梨は、自分の下駄箱の中から封筒を五枚、取り出す。
それを見て、翔はニヤニヤしながら尋ねた。
「内訳は?」
「………女子、三人、男子二人」
そう答え、頭を掻いた。顔も頭もよく、どこか浮世離れした魅力を持つ彼女は、男女共に人気が高い。影ではファンクラブがあるらしく、翔はその会員に何度か絡まれた事が合った。彼女自身は、気にしていない。
ただ、律義なのは一つ一つに返事を返すことだ。そのせいで人気が上がる、と言ったのだが、彼女は「失礼だろう?」と気にしていない。
「ほら。行こう。一時間目は、数学だろう?」
「了解」
お互いに同じクラスの男女――――授業開始のベルが、なる前に教室へと向かった。
淵東と黒木は、久しく訪れた商店街で、買い物をしていた。
服装は、現代風の若者のファッションだ。淵東は違和感なく溶け込んでいたが、黒木の異常な身長の高さは、嫌でも目に付く。
その両手一杯の買物袋を引っさげ、淵東は満足げだった。聯合の仕事で忙しかったが、今回は多めの出勤日をとってあるので、この後は楽しめるのだ。職権乱用だが、問題ない。
「黒木。たまには、こういうのもいいな」
「そうだな」
そう言いながら、黒木はキョロキョロと頭を動かしている。物珍しげな二人組に、他の人も訝しげだったが、あまり気にしてもいない。
淵東は、上機嫌で告げた。
「いや、今回は楽でいいな。あの二人だって、気のいい奴だったし。本部には、適当に言えばいいよな?」
「俺は、お前に従う。………個人的には、杏樹さんに迷惑が関わらなければいい」
命を救われてか―――黒木は、杏樹に頭が上がらなかった。というより、彼から何かの忠誠心が生まれたのか、ずっと敬語だった。
その相棒を笑いながら、淵東は近くの商店の売り物を覗き込む。
「なつかしいな〜〜〜。電電太鼓――――」
昔懐かしい玩具を持ち出し、声をかけようとした淵東は―――――瞬間的に顔を動かした。
遠くを見ながら、淵東は口を開いた。
「――――黒木。気がついたか?」
そう聞かれた黒木は、淵東よりも早くその方向に向いていた。
「ああ。当たり前だ」
そうだ、と淵東も思う。黒木に分からない事など、早々ない。その代償を、彼は払っているのだ。
「で? どうする? ほうっておくか?」
淵東の問いに、黒木は頷いた。
「総連など相手していても、時間の無駄だろう。………とはいえ、相手によるがな」
「………そうだな。水村がいれば、あいつらも大丈夫だろうが、相手によるか」
淵東は、小さく頷く。そして、黒木と眼をあわした。その相棒の顔を見て、淵東は苦笑する。
「調べて連絡ぐらい、しておくべきだろ? 行こうぜ」
「………すまない。淵東」
「よせよ」と軽くいい、二人は翔の家へ足を向けた。
昼休み。
親が外国旅行としゃれ込み、昼食がない翔は、珍しく学食へ足を運んでいた。杏樹が弁当を作ってくれるとか言っていたが、違う意味で弁当の中身が怖いので、それは拒否した。
「さて。今日は日替わり定食にするかな」
たいして考えた様子もなく、日替わり定食の券を買い、食堂の人に渡す。しばらくして、定食(今日は、鮭弁当だった)を渡された後、食堂内を眺めた。
「う………」
学食は、広い。それこそ何百人と入れるように計算された構造なのだが、今日はなぜか一杯だった。テラスのほうを見ても、空いてそうにない。
「………しかたねぇ。広場で食うか」
テラスに面して、噴水がある広場があった。昼休みのうちに食器を返せばいいので、そこで食事を取る連中もいるが、虫や遊んでいる人がいるため、極力避けた居場所でもある。
文句は言えない、と思い、翔はテラスに出た。
「あ、翔じゃないか」
テラスに出たとき、声をかけられた。驚いて声のしたほうを見ると、そこには、同じクラスの相原 亮太が、誰かと座ってテラスで食事を取っていた。
亮太は、その優しい風貌と誰とでも打ち解ける気軽さで、かなりの人気を持つ男子生徒だ。翔とは、小学校五年からの付き合いの、数少ない友人でもある。
その亮太と座って、うどんを食べている相手を見て、一気に眉が潜まる。
「おや、君か」
そこに座っているのは、絵梨だった。円卓で向かい合って、食事を取っている二人の間に座りながら、翔は物珍しいような眼差しで、尋ねた。
「水村………、めずらしいな。お前がここに発生しているなんて。もっと湿気のある日陰に発生しないと、問題だろ?」
「絵梨は、ボウフラかカビの類か?」
翔の言葉に、亮太が突っ込む。と言うのも、食事を取っている絵梨にそんなことを言った所で、彼女は適当に肯定するからだ。それが、亮太のほうが嫌らしい。
亮太と絵梨は、文字通り幼馴染だ。翔よりも古い付き合いで、よく三人でつるむ間柄でもある。
「はぁ………。ほら、早く食べようよ。いろいろと話を聞いていて、頭が痛くなってたんだ」
「へぇ。お前が、ね」
そう言いながら、翔は日替わり定食の味噌汁に口をつけた。そして、周りを盗み見る。
テラスの視線が、こちらに向いていた。目の前の二人は、かなりの人気を誇る組み合わせなのでそうなのだろう。
鮭を解し、口に入れながら続ける。
「で? 何を話してたんだ?」
「君の家に、絵梨が泊まったそうじゃないか」
ざわっ、と、テラスがざわめいた。その気配を感じながらも、翔は気にした様子もなく続ける。
「そうだな」
ざわざわ。
翔は、辺りの注意を引いても気にせず、むしろ鮭の骨を少しでも抜こうと四苦八苦しながら、話を続けていた。実のところ、絵梨と一緒に行動するうちに、奇異の眼に慣れているのだ。
一方の亮太は、完全にあきれ返ったような表情で、二人を見ている。大きく溜め息を吐いた後、小さく呟いた。
「君達は、小学生か?」
「高校生だ。同じクラスだろ? それに、遊びに来るぐらい、問題ないだろ」
事も無げにそういい、翔は口の中へ鮭を放り投げる。程好く焼けた鮭の切り身は、それだけでもおかずになるものだ。
感動していると、ヒョイッと隣から手が伸び、骨を持っていく。
ざわざわざわ。
鮭の中骨を持っていったのは、絵梨だった。骨を口にくわえ、もごもごさせているのはなぜか、と思って視線を向けると、すでにうどんを食べ終えて、暇だということに気がつく。
その彼女も、回りの視線を気にしていない。亮太だって、すでに慣れているようだ。
亮太は、少しだけ語調を強めて、続けた。
「だいたい、君達は付き合ってもいないんだろう? だったら、年頃の異性の部屋に泊まるのはどうかと――――――」
「家の親がいないから、下で寝てたぞ? 旅行とかほざきだして、朝いなくなりやがった」
ざわざわざわざわ。
翔が、テラスに視線を向ける。他のテーブルは静かで、話しているのはここだけのようだ。それに、確実と言っていいほど、他の人間が聞き耳を立てている。
それに気がつかないのか、または気にしないのか、絵梨が話を続けた。
「私がどこで寝泊りしても、たいして問題は無いと思うが?」
「問題大有りだろ」
そう答えたのは、翔。絵梨の眼差しを受けながら、非難するような眼差しで告げた。
「人の部屋の中心でエロ本開いてた奴が、迷惑じゃなかったとでも思ってンのか?」
ざわざわざわざわざわ。
「………まったく。君達は………変わらないな」
亮太の呆れた声――――それを聞いて、翔と絵梨はそれぞれ微笑み、同時に言った。
「「変わると思っているか?」」
亮太の乾いた笑顔と笑い声だけが、テラスに響いた。
亮太は、絵梨に惚れている。それは、周知の事実だった。翔だってそう気がついているし、恐らく絵梨だって気がついているだろう―――か? 果てしなく疑問だが、人として気付いていてほしい。
しかし、絵梨は翔の近くにいた。それも、周知の事実でこの学園では有名な話でもある。
(………なんでだろうな?)
数学の授業――――不等式というわけのわからない授業を、気だるそうに受けながら、翔は考えた。
絵梨は、同じクラスで窓側、最前列。翔は、最後尾だ。
前に座っている絵梨は、ぼうっと窓の外を眺めている。それがいつものことだし、すでにクラスでは慣れている光景だった。
その後頭部を眺めながら、翔は思考した。
(亮太の方がいい――――なんていうのは、一般論だよな。実際、アイツが俺を好いて一緒にいるわけじゃないんだし)
絵梨と一緒の行動が多いのは、慣れ、だ。元々人込みが嫌いなのと、暗いところが好きな性格が一致し、必然的に一緒になることが多い。
(………本当か?)
それは、今までの考えだった。今では、絵梨の行動は翔が魔法遣い≠セと知っていて、と考えられるのだ。
初めてレイと会ったとき、彼女は言ったのだ。
(『? 君か? 君は隠さないと不味いだろう? 君は確か、魔法遣い≠セっただろう? なら、止めておけ。聯合と総連が血眼になって拘束しに来る』)
絵梨に魔法を見せたことは、なかった。彼女が『魔法使い=xと言った事は覚えているが、自分がそうだとは、言っていない。魔法使い%ッ士は分かるようだが、魔法遣い≠ヘ分かるのだろうか?
(………そもそも、魔法遣い≠チて、何だ?)
行き着いた、一番の謎。聞いておくんだった、と小さく舌打ちし、それを考えながら、翔は空を見上げた。
ふと、視線をグラウンドに向けた。今は、どこのクラスも体育をしていない。
――――――なのに、人がいた。ゆらゆらと揺れるように立っているその人影は、まるで陽炎のようで。
キーンコーン、カーン、コーン。
チャイムがなり、一瞬だけ視線を外した。チャイムの音だと確認した後、もう一度視線を外に向けて――――違和感を覚えた。
その人影が、いなくなっていた。視線を外したあの刹那の時間で、人が消えていたのだ。
「………なにをしているんだ?」
いきなりかけられた、絵梨の声。振り返り、絵梨を確認しながら首を振る。
「なんでも、ない」
「………そうか」
たいして興味も無く、絵梨は頷いた。すでに帰り支度を終えている彼女は、どうやら翔の帰り支度を待っているらしい。
手短に帰り支度を終わらせ、翔は席を立つ。すでにパイポをくわえている彼女へ、いつものような口調で告げた。
「………かえっか」
「そうだな」
教室を出て、二人が昇降口まで歩く。多くの生徒が靴を履き替えている中、翔と絵梨は、二つの影を見つけた。
「なぁ。あれって………」
「昨日の二人だな」
昇降口の外に居る、目立つ二人組みは、間違いなく淵東と黒木だった。彼らは、居心地の悪そうな顔をしながらも、二人を探しているのだろう―――辺りをきょろきょろと見ていた。
翔と絵梨が昇降口から出てきたとき、二人が安堵の顔を浮かべたのは、言うまでも無い。
「どうかしたのか?」
翔の言葉に、淵東が肩をすくめあげた。一方の黒木は、至って真剣な表情のまま、辺りを見渡している。
それを察してか、絵梨が口を開く。
「ここじゃぁ、人が多い。………少し歩いた所に廃工場があるから、そこにしよう」
「そうだな」
二人を先導して、絵梨が歩き出す。その三人の後を歩く翔は、途中にあるグラウンドを見て、少しだけ首を傾げた。
「………・なんか、嫌な予感がするな」
そう言いながらも、翔は三人の後を歩いた。
レイは、ピクッと耳を上げた。今いる場所は、この家に来てからずっと居る場所――――――屋根の上。丸まって眠っていた狼は、ゆっくりと身体をあげると、しかめっ面をしながら唸る。
「………この感じ、エアゾルか。厄介な奴が来た」
そう言いながら、立ち上がる。今さっき感じた気配は、レイがもっとも嫌う相手の物―――――淵東、黒木、さらには水村 絵梨でさえ触れられない存在。たとえ、その場所に魔法遣い≠ェいたとしても。
行かなければ、行けない。自分が死ぬかどうか、今日決まるのだ。
「………気に入ったんだよな。俺。………魔法遣い≠ェ、翔でよかった」
そういった瞬間、レイの姿が消えた。
「――――――エアゾル?」
「ああ」
鉄筋関係の廃工場―――――空気が埃っぽく、ところどころに差す日光が埃の霧を映し出す中、四人の姿があった。廃工場は、河川敷沿いにあり、森に囲まれているため見つかりにくく、人里から少しだけ外れた、静かな場所でもある。
訝しげな翔の声に、黒木は頷く。全く意味の分からない翔は、淵東、絵梨の顔をそれぞれ見て、尋ねた。
「なんだ? それ?」
それには、淵東が答えた。かなり厳しい眼差しで、真剣な声のまま告げる。
「総連でも手練の一人だ。………ただ、会った事のある聯合の仲間は、大抵が殺されている。勧誘に行ったはずの魔法使い≠焉A殺されていた」
淵東の言葉に、翔の眉が潜む。続くように、黒木が告げた。
「奴の相手をするのは、得策じゃぁない。奴は、戦闘狂だ。わざわざ、聯合のゴブリンを殺して探しに来た魔法使い≠殺すような相手だ。………ただ、今回は気紛れのようだから、しばらくすればいなくなるだろう」
「気紛れ? ………ああ。そうか。水村が倒したのは聯合のゴブリンだから――――――」
そこで、翔の言葉が途切れた。訝しげに見てきた三対の眼差しを見て、真剣な眼差しで告げた。
「………なぁ。水村が倒したゴブリン………本当に聯合のなのか?」
翔の言葉に、絵梨と淵東が眉を潜める――――が、黒木はすぐにその可能性に気がついた。感心したように頷くと、口を開く。
「………なるほど。そういう考えもあるのか」
「どういう意味だ?」
訝しげな淵東の方を向いて、黒木が頷き、説明した。
「もし今まで水村さんが俺たちの追っ手を倒していたとしたら、本部だってもう少しマシな、相性のいい、という事だが。そういった奴を送るだろう? しかし、今回は俺達が選ばれた――――――それで、薄々感じていた事がある」
黒木の言葉に、淵東はいち早く理解した。盲点だった、という風に顔をしかめながら、顎を擦りつつ、呟く。
「………なるほど。本部は、俺達をエアゾル対策で送ってきたわけか。確かに、エアゾル相手なら、俺たちが最適だ。………勝てるかどうかは、別問題だが」
つまり、翔が言いたいのは―――――絵梨が倒したゴブリンが、総連のものだと思っているのだ。
総連にしては、ゴブリンを倒されたのだから誰かを送る。それが、たまたまなのか、エアゾルという人間になったのだろう。そして、エアゾルは聯合のゴブリンを殺す。その対策に二人組の魔法使い≠送ってきた――――それが、翔の考えだった。
説明に感心しながら、絵梨はパイポを口から外し、呟く。
「だとしたら、この二人を人身御供で差し出せばいいわけだ」
「そうだな」
にべもなくそう答え、翔は大きく欠伸をする。その態度を見て、二人は眉を潜めたが、苦笑になった。彼らにしても、巻き込むつもりはないようだ。
「………ま。お前達が最適だって言うんだから、相手の能力ぐらい、わかってんだろ?」
翔の言葉に、黒木が頷きながら口を開いた。
「ああ。エアゾルの能力は――――――」
黒木が何かを言うよりも早く。
「面白そうな話をしているじゃないか。魔法使い¥伯N」
翔の背筋に、寒気が走った。
一瞬――――その声が聞こえたほんの刹那、沈黙が訪れ、切り裂かれた。
バッとそれぞれ反応し、その場所を飛びのく――――一瞬反応が遅かった翔の体から、血が噴出した。
「くっ………」
小さく呻き、一斉に振りかえる。廃工場の入り口――――日光が溢れる光の中に立つ、一つの影。それを見て、翔は直感した。
エアゾル。そうじゃなくても、間違いなく魔法使い≠ナあるだろう、異質な空気に、体が凍った――――否、人としても、違和感を覚える空気だった。
男――――長髪ですらっと長い肢体、それを包むような黒革の服――――そして、顔の頬に彫りこまれた刺青――――それらを振るいながら、男は告げた。
「いやいや。今回は、いい日だ。魔法使い≠ェ四人、殺せるのだから」
エアゾルはそう言いながら、四人の顔を見比べ――――困惑の表情を浮かべた。彼の眼差しが翔に止まったと思った瞬間、彼の顔が綻ぶ。
「お前、魔法遣い≠カゃないか?」
一同に、困惑の色が走った。淵東と黒木も、驚きの表情で翔を見ている。
次の瞬間、弾けたようにエアゾルが笑い出した。その笑い声は、廃工場を支配していた静寂を切り裂き、全ての者へ不快感を与えた。
「最高じゃないかッ! お前の力、俺に寄越せよッ!」
刹那、相手の腕が振るわれた。高音――――耳の奥に鳴り響く異音が、辺りに鳴り響き―――――
ドンッと、押し出される。押し出した相手の右腕――――相手が絵梨だと知った瞬間、その音は上腕を切り裂き、血が吹飛んだ。
「水村っ!」
小さな舌打ちが聞こえた次の瞬間、彼女は左手で翔の手を取った。
「立てっ!」
珍しい彼女の怒声。
大声に、翔はあわてて立ち上がり、駆け出した。絵梨に引っ張られ、廃工場の奥へと姿を消す。
それを眺めながら、男――――エアゾルは、深く微笑む。両手を軽く握りながら、肩を回して、二手に分かれた翔達を見て、呟いた。
「どれ。どっちからやろうか」
そう言いながら、ゆっくり歩いていった。
「水村………。大丈夫、なのか?」
「このぐらい、どうって事は無い」
廃工場の奥にある、書類などが残っている書物庫。今にも崩れ落ちそうな入り口を眺めながら、翔は改めて絵梨の傷の具合を確かめた。
(………皮膚が裂けただけか。俺のも、服を切って、皮膚が裂けただけだ)
血は流れているが、酷い傷ではなかった。しかし、いくら酷くないとはいえ、無理して動いたりすれば、化膿してしまうかもしれない。
「………さて。どうしたものか」
絵梨の注意は、自分の傷に向いていなかった。あの男―――エアゾルの方を眺めながら、ずっと黙っている。
「お前、水が無いと、戦えないんだろ?」
翔の問いかけ――――それには答えず、彼女は壁に背をもたれた。まるで煙草のようにパイポを指で挟むと、小さく呟いた。
「すまない。………・巻き込んでしまって」
「何言ってんだ。巻き込んだのは、どっちかと言えば俺だろう」
そう言いながら、自分の服を裂く。それを絵梨の右腕へ巻きつけて、止血する。
止血した後、絵梨を見上げた。彼女と視線が合い―――気がつく。
彼女が、何かを諦めた事――――そして、自分に「申し訳無さそうな」視線を向けている事に。
「………お前、何を隠していやがる」
翔の言葉――――それを聞いた瞬間、彼女の顔が情けなくなるほど、シュンとなった。女々しい、しおらしいというよりは、「とうとうこの日が来てしまった」という、諦めの横顔―――翔が絶対に見たくなかった、幼馴染の顔だ。
「別に………」
「………水村」
長い付き合いだからこそ、分かる事がある。男女の壁や、そんなまどろっこしいもの全てを振り払って、親友だからこそ、分かる嘘。
彼女も、分かっているはずだった。だからこそ、今まで隣にいたのだ。
翔の暗黙の視線―――それを受けて、絵梨は泣き出しそうに顔を歪め、下を向いてしまった。そしてそのまま、諦めたように、口を開いた。
「………魔法遣い≠ヘ、禁忌なんだ。私達、魔法使い≠ノとっても、世界にとっても」
「………どういう、意味だ?」
翔の言葉――――それに答えるように、絵梨は続けた。
「魔法遣い≠フ血を魔法使い≠ェ飲むと、力が増大する。それは、相乗的に増え続け、最後は天候すら操れるという。混血でさえ、そうなんだ」
混血でさえ。
その言葉に、翔は嫌な予感がした。その全てを察したのか、絵梨が呟く。
「君は、世界で唯一―――――最後の、純粋種だ」