二、非平凡な一日

 

 次の日―――――三十日。

「………」

 翔は、自分の目が信じられなかった。珍しく眼を覚まして起きてきたという、今世紀最大の偉業を成し遂げたというのに、神様はすがすがしい気持ちのまま、一日を始めさせてはくれなかった。

翔が立ち尽くしていると、声が掛けられた。

「あ、おはようございます。お兄ちゃんさん」

 朝の挨拶―――今日は、珍しく起こしに来なかった杏樹が、笑顔でエプロン姿のまま台所に立っていた。

 しかし、翔の視線は杏樹に向いていない。向いている先には、見慣れた彼女がいた。

「………水村。お前、昨日帰ったよな?」

「………ああ。おはよう」

 まるでそこにいるのが当たり前のように、リビングのソファーに絵梨が座っている。居心地良さそうなソファーに、彼女の小さな身体全体を入れ込み、何かの雑誌を読んでいた。すでに朝食を終えたのか、空の食器がテーブルの上にのっている。

 それらを見て、視線を彼女に戻す。そして、杏樹に聞こえないような声で、告げた。

「てめぇ、………昨日は、「普通に生活していれば問題ない」とかいってなかったか?」

 昨日―――なぜか送ってもらった翔へ、絵梨が面倒臭そうに口を開いた。

『君は普通に生活すればいい。視察に来た奴には私が話をつけるから、問題ない』

 そういって、帰っていったのだ。釈然としないまま、理解も出来ない状況で翔は眠ったのだ、が。

「朝っぱらから特殊な状況じゃねぇか」

「君は普通に生活しているだろう? ただ、私の生活が変わっただけだ」

 事も無げにそういい、彼女は視線を雑誌に向ける。何か言いたげだった翔は、その雑誌に視線を向けて―――――無言のまま、テーブルの上に在る新聞紙を丸めた。

 パシンッ、という軽い音と共に、新聞紙が振るわれた。さすがに非難の視線を、翔に向けた彼女は、静かに呟く。

「………何をする」

「朝っぱらからエロ本読んでんじゃねぇ」

 短くそういい、新聞紙を放り投げる。全てが面倒臭くなり、すでに諦めていた翔は、台所にいる杏樹へ声をかけた。

「おはよう、杏樹。悪いが、飯頼む。………軽いもん」

「はい。座って待っててくださ〜〜〜い」

 嬉しそうに声をあげ、杏樹が料理を始める。カウンター越しの椅子に座り、その妹の背中を眺め―――あることに気がついた。

「なんだ? 今日は、部活か?」

 杏樹がエプロンの下に着ているのは、青を基調とした運動服――――彼女が所属しているバスケットボールのユニフォームだった。

 彼女はそれに気付かれて嬉しいのか、喜々として振りかえる。

「そうなんです〜。だから、お兄ちゃんさん、絵梨先輩とお留守番しててくださいね♪」

「………お前は、本当に能天気だな」

 朝から家に居るという奇行している絵梨を、杏樹は認めているようで、いつもどおりの感じだった。同じ家族としては追い出して欲しい所だが、何かあれば付き合いがある水村家―――それはしないらしい。

 大きく溜め息を吐くと、翔は机に寄り掛かった。

(………結局、深く考えすぎなんだよな。あぁ〜〜〜〜〜あ、気をもんで損した)

 肩透かしを食らった面持ちで、翔は項垂れた。

 

「………本当にこの町であってンのか?」

 そう声をあげたのは、赤焦げた髪を持つ男だった。人の気配がしない無人駅で、改札口に切符を置いていた。

 服装は、長い黒のフレンチコート。目元を隠すためのサングラスを頭に載せ、重そうな荷物を降ろしながら呟く。

「どうなんだ? 黒木」

「………合っている。ゴブリンが消えたのは、この近くだ。………淵東」

 男の言葉に答えたのは、もう一人の影。影と形容したのは、その並外れた身長と黒が強調された服装をしているからだった。

 細い眼差し、そして薄い唇が、全く生気を感じさせない。しかし、男―――黒木は、静かに口を開いた。

「ただ、その相手がこの町にいるとは、別問題だ。いくら早く来たとはいえ、総連の場合ならすでに場所を移動しているかも知れん。………最近では、無所属は珍しいからな」

「これで当てが外れたら、どうしてくれようか」

 そう言いながら、淵東は肩に荷物を担ぐ。人の気配がしない周りを眺めて、黒木へ告げた。

「行くか。相棒」

「そうだな」

 そういって、二人はあてもなく歩き出した。

 

 絵梨は、翔の家の壁に寄り掛かるように座っていた。その横には、狼が寝そべっている。

 場所は、庭。芝生の敷き詰められたその敷地で、靴に履き替えながら年代を感じさせる外壁に背中を預け、絵梨はボウッとしているだけだった。

 杏樹が出かけ、翔は部屋にこもっていた。引き篭もり、というよりやる事がなくて部屋にいるということか。

(………相変わらず、人と付き合うのが根本的に苦手、か)

 絵梨と翔の付き合いは、小学校低学年の頃に遡る。三年の頃、すでに今のような性格のため、友人もいなかったあの頃――――――。

(………歳、だな。昔のことを思い出すなんて)

 そう自嘲し、ポケットからパイポを取り出す。口でくわえながら、空を見上げた。

 その時、昼寝が終わったのか、隣の狼が少しだけ立ち上がった。それを横目で見ながら、絵梨が呟く。

「君は、聯合のか? それとも、総連?」

「どっちのでも無い」

 不貞腐れたような声。それが、彼(?)にとって面白くない話題だという事に気がつく。しかし、絵梨は気にしない。

「………キメイラは、人体改造能力者だろう? なんで、人間に戻らないんだ?」

 キメイラ。自分の身体を『媒体』とする魔法使い=B割合としては一番数が多く、その変化も多種多様にわたるその存在――――ただ、目の前のように身体全体が獣化する話を、絵梨は聞いたことがない。

 狼は、大きく欠伸をした後、答えた。

「呪いで、な。元に戻るために十五年、魔法遣い≠探していた」

 その言葉を聞いて、水村は眼を見開いた。

 呪い。古今東西、全ての宗教、国、文化で必ず出て来るその単語に、絵梨は眉を潜める。少しだけ驚いたように身体をあげ、マジマジと狼を見つめる。

「そんなに、珍しいか?」

 狼の問い―――それを聞いて、絵梨は苦笑する。

「………珍しいね。呪いなんて、どの宗教でもかなりの上位者が行なえるものだし」

「確かに。俺だって、呪いを受けるとは思ってもいなかったわけだし、こんな姿になったら魔法もつかえない。………どうしようもないね」

 狼からもれる、諦めの溜め息――――それを聞いて、絵梨が尋ねた。

「………彼だったら、どうにかできることなの?」

「出来る。俺の開放条件が、それだ」

 そう答えながら、狼は顔を下げた。どうやら、眠るらしい。

 チュン、チュン。

 庭先にある木々へとまった鳥が、さえずる。塀の向こうから子供の歓喜の声が上がり、それを注意する親の声が聞こえてきた。

今日も、この町は平和に過ぎていく。それは、ずっと昔からそうだし、これからもそうだ。横の存在は、自分の予想外の生物だったが、問題無さそうだ。

 それを横目で見て、絵梨も眼を閉じた。

 

 

 

『あいつ、おかしいもん』

 自分がそういわれ始めたのは、どれほど前か。

 孤独が、好きだった。他人がどれほど煩わしくて、一人がどれほど気楽だったか。引き取ってくれた親戚先も、新しく出来た妹ですら。

 どうしてそう考えたのか、分からない。いつの間にか、一人になっていたのだ。

『鷹藁さんと遊ぶの、いや!』

 周りの同級生は、自分を嫌っていた。それは、生存本能か何なのか――――どれにしても、誰も自分の近くにはいない。新しく出来た妹の杏樹は、人気者だというのに。

 しかし、それを妬んだ事がない。一人が好きだし、気が楽だったからだ。

 ある日、その日常に、変化が訪れた。その変化は、唐突に来たのだ。

『………水村 絵梨』

 色のない瞳。そしてなにより、自分と同じ、という存在感。初めて、同類の匂いがした。

 彼女も、一人だった。違うのは、周囲の反応ぐらいだろう。

 誰もが、彼女のことを気にして、誰もが彼女を見ていた。それは、美人だったのもあるだろうし、不思議な雰囲気があったからでもある。

 それでも、彼女は一人だった――――――一人でいた。自分と同じなのかどうなのか、確かめたくて。

 学校の帰り道―――彼女が一人のとき、声をかけた。

『………君、誰?』

 面倒臭そうな、全てを諦めた表情の眼差しのまま、彼女は告げた。

『魔法使い=x

 

 

 

(――――――それから、だよな。アイツが俺の隣にいたのは)

 気がついたら、水村 絵梨が隣にいた。とはいえ、お互いに声をかけるはずもなく、いつもどおり呆然と歩き、人のいないところにいたのだ。孤独を探して場所を変えれば、必ず二人そこにいたのだから、奇妙な縁としかいいようがない。

 中学生の頃、ようやく、翔は自分の性格を前に出せた。明るく、少しだけ皮肉屋な自分―――事故前の性格に、戻れたのだ。

 それでも、彼女は隣にいた。まるで空気のような存在で、そこにいるのが当たり前のように。不思議と、誰も茶化して来なかった。

「………なんで、だろうな?」

 何回考えたか分からない疑問。

 答えは、でない。

 ベッドから、身体を持ち上げる。首を鳴らし、時計を見上げた。昼頃―――そろそろ、昼飯の時間だ。杏樹は練習試合なので帰ってこないから、どこかで食べてくるなり、作らなければならない。

「………さて、と。アイツは家にいるのかね」

 そのまま起き上がり、一階へと降りていく。家の中に気配がないのを確認すると、そのまま庭のほうへ玄関から向かった。

 そこにある、二つの姿―――それを見て、苦笑した。

「寝てやがる………」

 庭先で、壁を背中につけて眠っている友人を見て、微笑む。端整な顔―――孤高の美人と称される彼女は、確かに美人だ。とはいえ、見慣れてなんとも思わない。

「起きたのか? 魔法遣い=v

 不意に、狼が声をかけてきた。おきていたのか、と思いながら翔は頭をかく。

「魔法遣い≠ヘ止めろ、狐。翔だ」

「なら、俺を狐と呼ぶな。レイという名前がある」

 互いに言い合い、苦笑する。奇妙な縁というが、慣れれば面白いものだ。

翔は、まだ眠っている絵梨を見る。大きく溜め息を吐くと、彼女の足と身体に手を回す。そして、一息で持ち上げた。

「ったく、寝るならきちんと部屋で寝ろよ」

 絵梨は、昔からそうだった。眠くなったら寝るし、お腹がすいたら普通に学校を抜け出して食事を取る。まわりから奇異の眼を向けられても、気にしなかった。

「………カップルみたいだな、魔法………翔」

「黙れ」

 狼―――レイを追い払い、翔は和室のほうから彼女を運び入れ、居間のソファーに寝かせる。外で寝ていたので、身体のあちらこちらにゴミや虫がついていたので、ある程度払いのけた。

 そのまま、彼女を覗き込む。いい加減おきればいいのに、彼女が起きる気配も無い。

 彼女をソファーに置いて、翔はそのまま和室に戻る。縁側に座ると、レイが出てきた。

「どうだ? ま………翔。聞きたいことがあるんだろう?」

「ん。別に、いい。特殊な環境だって、よく言われるからな」

 翔は生来、特殊な環境下といってもいい。両親は死んだし、そのまえに祖母は町内でも変わり者で有名だった。

 子供の頃からそうだったという御祖母ちゃんっ子だったこともあり、大人びているのだ。いまさら、魔法使い≠セの魔法遣い≠セといわれても、ピンと来ないのだろう。

 レイはふがふがと笑い、その場に寝転んだ。背中を地面に擦りつけながら、告げる。

「どちらにしろ、魔法使い≠ニ離れないほうがいい。翔は、何も知らないようだからな」

「ああ。知らないね。………知りたくも無い」

 翔にとって魔法は―――――忌み嫌う存在でしか、ない。使えるのを知っているのはレイと御祖母ちゃん、そして使えると知っているのが絵梨のみ。それ以外の人には、どうしても離れてしまうのだ。

「総連だの聯合だの、勝手にやっててくれ。興味も無い」

「俺もだ」

 そういったのはレイ―――――ではなかった。

 バッと、身体を持ち上げる。レイと同時に見上げた先は、塀の向こう、ブロック塀から身を乗り出している赤茶色の髪を持つ男。

 そして、ブロック塀よりも高い身長を持つ黒髪の男―――二人を見て、レイが驚いたように口を開く。

「淵東、黒木………ッ!」

「おや? 俺らの名前を知ってるのか?」

 赤髪の男はそう笑い、ヒョイッと身体を反転させた。そのまま塀の上に降り立つと、不敵な表情のまま翔を見て、何かが、突き刺さった。

 石(無論、翔が投げた)――――それが、顔面の中心に命中し、もんどりうって前のめりに倒れる。庭に落ちて、異音が鳴り響いた。

それを見ていた男が――レイが、黒木と呼んでいた―――が慌てて玄関先から入ってきて、彼を支えた。

痛そうに顔を抑えながら、淵東が怒りの表情で叫んだ。

「テメェ、何しやがるッ!」

 怒り心頭な彼の問いを聞きながら、翔は「フン」と鼻を鳴らす。その手で石を持て余しながら、こちらも不機嫌そうな声で告げた。

「人の家の家垣にのぼって何をかっこつけてやがる。不法侵入だ、ボケ」

「な………」

 驚いていたのはレイも一緒のようだ。驚ききっている二人の前に仁王立ちし、翔は告げた。

「だいたい、人の話を聞いてプライバシーの侵害だとは思わないのか? 更には勝手に人の話に入ってくるし、常識がないんだよ、常識が」

 詰め寄る翔に、不意を突かれた二人は呆然としていた。それを気にした様子もなく、翔は親指で玄関先を示す。

「ほれ、今なら警察も呼ばないから、さっさと帰れ。もしこれ以上いるっていうなら、警察呼ぶぞ?」

 その言葉に、黒木が頷き、淵東が叫んだ。

「て、テメェッ! 勝手に話を進めているんじゃねぇよッ!」

 バッと飛び起き、距離を取る。それを冷ややかな視線で見送りながら、翔は小さくした打ちした。

「っち。強引に追い出すつもりだったんだが………」

「翔………」

 ある意味恐ろしくなっていたのか、レイが距離を取ったが、気にしない。

 翔は、改めて溜め息を吐きながら、状況を把握する。目の前の二人を見て、口元を歪めた。

(あれ、絶対に魔法使い≠セか何だかなんだろうな。水村もいない今、相手にするのもどうか――――――)

 昨日の戦闘を見るかぎり、無事では、すまない。自分が出来る事など、指から火花が出るぐらいだ。昨日の夜、頑張ってみたが進展も無い。

「で? お前達はなんなんだよ。そこの喋る狐なら、好きなだけ持っていけよ」

 翔の言葉に、二人の顔が驚愕の色に染まるが、先導権はそこまでだった。

 黒木が、眼を細める。小さく首を振りながらも、翔から視線を逸らさず、呟いた。

「………お前、魔法遣い≠セな?」

 ピクッと、眉が動いた。内心、しまったと思ってしまったが反応してしまったのは、どうしようもない。小さく息を吐く。

「違うね」

 その声――――それは、淵東と黒木の後ろから聞こえてくる。

 刹那、彼らの身体に水がかかった。驚いて振り返った先には、絵梨が庭についている蛇口から大量の水をまいているところだった。

 蛇口をそのままに、絵梨が一歩前に出る。淵東と黒木が、慌てて距離を取った。

 絵梨は、いつもの表情のまま翔の前に立つ。そして、口からパイポをとると、小さな声で呟いた。

「………遅くなった。眠い」

 そういった後、彼女は振り向く。

 その先にいるのは、さっきの二人ではない二人―――異様な空気を持つ、二つの存在。いつの間にか、臨戦態勢のままその場に立ち尽くしている。

「お前………魔法使い≠セな」

「そのとおり。それと、今、この瞬間、君達は負けが決まった」

 絵梨がパイポを、投げ捨てた。パイポは水浸しの庭に落ち、芝生が音を立てる。

 瞬間、淵東が動いた。フレンチコートをはためかせ、一気に距離を詰めようとする―――――が、いきなり体勢を崩す。

 翔が見た先、水色の腕が淵東の足を掴んでいた。そして、翔は驚きの表情のまま、絵梨を見る。

 絵梨の腕が途中で変質し、まるで水になっていた。悪戯が成功したような笑みを浮かべ、絵梨は相手を見る。

「てめぇ………」

 怒りの矛先を、手で貫こうとするよりも早く、絵梨の腕が戻る。

 立ち上がる淵東―――それを見ていた黒木が、小さく呟いた。

「退こう。さすがに、最初反応できなかったのが不味かった」

「………ちッ」

 小さく舌打ちをしながら、淵東は黒木に触れる。その黒木は、近くにある木に触れると、翔と絵梨に向かって、告げた。

「お前達が魔法使い≠ナも魔法遣い≠ナも、関係ない。次に会ったら、覚えていろ」

「逃がすと思うか?」

 絵梨の腕が動くよりも早く、黒木の姿が消えた。

 レイが慌てて木に近付く。二、三度鼻を鳴らすと、首を振った。

「………どうやら、何かの能力だ。考えられるものとしては、木を媒体にする能力だろう」

 その言葉に、絵梨が大きく溜め息を吐く。自分のポケットからパイポを取り出すと、口にくわえた。

「厄介だ。発動条件も、そんなに難しく無さそうだ」

「発動条件?」

 聞きなれぬ言葉に、翔が首をかしげた。聞いていたレイが、顔をあげて答える。

「能力の発動には、幾つかの条件があるんだ。大抵は、能力の度合いによって異なる。たとえば、高度な能力を使うには、多くの発動条件――――もしくは、代償を払うんだ」

「なるほどな」

 翔は、何気なく絵梨を見た。確かによく見なければ分からないが、彼女から明らかな疲労の色が見えた。昨日と今日、立て続けに能力を使った代償かもしれない。

「さ、家の中に入ろう。お腹がすいた」

「………了解。なんか作るよ」

 自然に家の中へ戻ろうとする絵梨の背中を見て、翔は複雑な気持ちになった。

(………一体、何が起こるって言うんだ?)

 日常から突然変わった、非日常。

 その中で、唯一普通と変わらない水村 絵梨が――――――怖かった。

 

 

 

 

「じゃあねぇ♪ 皆」

 学校の前。部活が終わり、杏樹は部活の友達に手を振る。ほとんどの生徒が自転車で通学する中、彼女は走って帰っていた。

 翔と杏樹が通う学校は、私立の巨大な学園――廠耀付属学園。敷地内に小学校から大学まであるエレベーター式の学園で、かなり有名な学園だった。その学園の中等部、バスケの期待のエースである杏樹は、いつもより機嫌よさそうに走っていた。

 軽快に走る彼女の横に、一人の女子が自転車で並ぶ。息切れどころか疲労の色すら見せない杏樹へ、彼女―――同級生の安東 奈津美が声をかけた。

「杏樹ちゃん、本当にお兄ちゃんと二人っきりなの?」

「えへへ〜。そうなんです♪ でも、絵梨先輩も一緒ですよ」

 嬉しそうな杏樹の笑顔を見て、奈津美は苦笑した。いつまでも仲がいい兄弟で、逆に羨ましく思ってしまう。

「だから、早くお家に帰って夕食の準備をしないといけないんですよ。さ、急ぎ―――――――――」

 下り坂で一気に加速しようとする杏樹の前――――交差点の向こうから、突然二人組の男が現れた。

「わぁ!?

 驚いて振りかえる二人とは違い、杏樹は、一瞬の間に判断した。

 身体全身を使って、跳躍。悪いとは思いながらも男の肩に手をついて、くるりと回る。絵梨は男達を飛び越え―――――――。

「あきゃっ!?

 尻から落ちた。痛むお尻を擦りながら、杏樹は二人組に視線を向けた。

「すみませんです………ッ。お怪我、ありませんか?」

「あ、ああ………。うちらは大丈夫だけど、君は?」

 声をかけてきたのは、赤髪の男―――まだ早いと思うコートを着込んだ男だ。もう一人は身長の高い男で、げっそりとしている。

「あ、はい。慣れていますので」

 ナハハーと笑い、立ち上がる。パタパタと自分の身体を叩くと、杏樹の視線が身長の高い男に向く。その男が、フラフラと揺れていた。

「あの………本当に大丈夫ですか? フラフラしているようですが?」

「あ、………い、いや。その、疲れているからな。あ、あまり気にしないでくれ」

 もう片方の男がそういうが、杏樹はキッと睨むと、告げた。

「ダメですッ! 栄養失調と疲労の色が見えますッ! ………こっちにきてください」

 そういって、身長の高い男の手を掴む。さすがに驚きの表情を向けた男は、声をあげた。

「ど、どこへ」

 杏樹は振り返ると、断固とした表情で言い切った。

「僕のうちですッ!」

 

 引き攣った表情のまま、翔は目の前に座る二人を見ていた。その翔の斜め後ろに、壁にもたれたまま眠っている絵梨の姿がある。

 場所は、翔の家一階のリビング。窓の外には、青々しい庭木が見え、部屋の中心にはガラスのテーブル、それを囲むようにソファーが置かれている。テレビは、隅の方だ。

 一人は、ソファーの上―――確か、黒木といったか――――で頭に濡れたタオルをかぶせて寝ている。そして、もう一人の淵東は、静座のまま座り込んでいた。

 状況は、至ってシンプル。いきなり杏樹がこの二人を家に入れ、ばたばたと介抱しているのだ。

 さすがに最初は、両方がいきりだったが。

「喧嘩はダメですッ!」

 という杏樹の一喝で、その場の緊張がなくなった。双方が知り合いだと知ったときは杏樹も驚いていたが、今はすでに夕飯と黒木のための薬膳料理を作っているところだ。

「………・ああ、その、何だ」

 淵東が、おずおずと口を開く。言い辛いのは、引き攣った笑顔のまま、翔が見ているからだろうか。

 それでも、彼は申し訳無さそうに表情を歪め、口を開いた。

「………正直、助かった。黒木の能力は、応用力がある反面、反動が強いんだ。………あのままじゃあ、死んでいたかも知れん」

「人を殺そうとしていた奴が、何を」

 そう言いながらも、翔は大きく溜め息を吐いた。どちらにしろ、杏樹がいる前で暴れなかっただけ、マシだろう。彼らも、そう考えていないらしい。

 なにより、唯一の頼みである絵梨が、後ろで寝ているのだ。翔に淵東をどうこうする力はない。

「………俺だって、驚いてる。まさか、道端であった子が、俺の相棒の危機を察して家まで連れて行くんだからな。そこが、ここだとも思わなかったが」

 淵東の言葉は、本心のようだ。その証拠に、彼はずっと静座のまま、杏樹に顔があがっていない。意外に律義なのだと、感心した。

 その相手を咎める気にもなれず、翔は頭をかいた。

(まぁ、いろいろとあるわけだが、今は情報が欲しいし)

 はっきりいって、目の前の存在を家の中に入れるわけにはいかない。

が、今は情報源が犬(狼)であるレイと、当てになるかどうか聞かれたら当てにならないといえる水村の二人なので、もう少し欲しいと思っていたところだ。

 若干あきれた考えも在るが、とりあえず息を吐き、答えた。

「………まぁ、人が死ぬのを無視するわけにもいかないだろ。暴れなきゃ、俺としては問題ない。あと、杏樹の前で魔法だのの話はするなよ」

「わ、分かった。今日は、休戦しよう」

 淵東の言葉に、翔の警戒心が解かれた。どちらも、片方が動けないのだから攻撃もしてこないだろうと考えたのだ。

「………それで、お前は聯合だか総連だかの、か?」

 出来る限りの平常心と冷静を装いながら、翔は尋ねた。

 淵東は、どうやら杏樹にかなり毒を抜かれたらしく、やや砕けた感じで答えた。

「一応、聯合だが………。お前達は無所属なんだな?」

「ああ」

 出来る限り素っ気無い答えを返したつもりだが、声が震えていたかもしれない。しかし、淵東はそれに気がついた様子もなく、普通に頷いた。

「やっぱりな。………それで、どっちにも所属したくないから勧誘に来た俺達を叩きのめそうとしたわけだ。まぁ、そっちの女だったら出来ただろうが」

 苦々しく思い出すような顔で、頷く。

バツの悪そうに頭を掻きながら、淵東は翔を見上げる。その後、杏樹を見て――――――小さく呟いた。

「お前ら、家族………いないんだな?」

「ああ。(俺には)いない。(そのうち帰ってくるが)今は、俺と杏樹の二人っきりだ」

 翔の言葉に、淵東が大きく溜め息を吐いた。そして、未だに黒木の面倒を見ている杏樹を盗み見して、笑う。

「………俺に、お前らは連れて行けない。ゴブリンは、事故で死んだことにする」

「本当か?」

 淵東の言い出した言葉が、一瞬信じられなかった翔は、思わず聞き返してしまった。

 聞き返された淵東は、複雑そうな表情をして頷く。

「命の恩人の、たった一人の親族を連れて行けるか。………だいたい、連れていこうにも俺とあの女の能力は相性が悪すぎる」

「………そうか。ありがとう」

 翔の言葉に、淵東が笑う。「よせよ」とでもいいたげな表情だったが、かなり嬉しそうだった。

 不敵に微笑み、淵東が右手を差しだす。

「淵東。それ以外に名前はない。アイツは、黒木」

「鷹藁 翔に、妹の杏樹。そして、幼馴染の水村 絵梨だ。………妹はこの状況を知らないから、下手なことを言うなよ」

「分かってら」

 お互いに手を取り、硬く握手をする。変な縁だとは思うが、これで聯合の相手は懐柔できた―――それが、自分の妹のお手柄だと考えると、少しだけイライラしたが、これで丸く収まるだろう。

「お兄ちゃんさん、晩御飯にしましょう♪」

 杏樹の声―――――それを聞いて、豪快に答えた。

「おうッ!」

 

 その晩は、またもや焼肉だった。

 肉の焦げる音に、脂のはじける音。それがしかれたプレートを、居間のテーブルの上に置き、全員がグルッと囲んでいる。

 絵梨はもちろんのこと、復活した淵東と黒木も食事を取り、外で待っているレイにもおこぼれがでるほど、豪勢な食事になっていた。

「でも、ま、今どき珍しいな。無所属なんて。かなり大変だっただろ?」

 淵東は、かなり友好的な態度で、絵梨に声をかけた。その無所属の人間を引き入れに来ていた淵東に聞かれ、絵梨は少しだけ訝しげに思う。

「………そうでも無い。襲い掛かってきた奴をコテンパンにのしただけだ」

 事も無げにそう言いながら、絵梨はプレートの上にのった焼肉を拾い上げ、たれにもつけずに口に入れる。それを信じられないように見て、淵東が口を開いた。

「それ、まだ焼けてないだろ? 豚なんだから、きちんと焼けよ」

「………君も、随分とおせっかいだな。幼馴染と同じだ」

 小さく呟き、それでも生な肉を口に含む。咀嚼する絵梨を見て、茫然とする淵東へ、翔は告げた。

「気にすんな。どうせこいつは、BSEに感染した肉を食っても生きてる」

「お兄ちゃんさん、それはいくらなんでも………」

 さすがの杏樹がフォローしようとした瞬間、絵梨がぶっきらぼうに告げた。

「ああ。恐らく生きているな」

 そういいながら、御飯を口に入れていく。それがおかしい翔は、大きく笑いながらもプレートの上にのって程好く焼けている肉を食べる。

「ありがとう。俺を、救ってくれて」

 口を開いたのは、無口そうな男、黒木だった。それを聞いた杏樹は、小さく舌を出しながら、愛嬌のある笑顔で答えた。

「気にしないでくださいです。袖すりあうのも多少の縁です」

 その光景を見ていた淵東は、近くの翔に声をかけた。

「いい妹さんだな。さぞかし、もてるんだろう?」

 淵東のニヤニヤした顔を見て、翔はぶっきらぼうに答えた。

「さぁな? 本人は、理想が高いとか言って彼氏を作っていないようだし………。ただ、お前やアイツが手を出したら、殺すぞ?」

「は、はははっ! そ、そんなわけないじゃないか」

 少し考えていたな、と考えながらも、翔は大きく溜め息を吐いた。

 食事が終え、淵東と黒木は駅近くにとってあるホテルへ帰っていった。どちらにしろ、久し振りの外出なので、この町でゆっくりしていくらしく、「いつでも遊びに来い」といって、意気揚々と帰っていったものだ。

 絵梨は、久し振りに家へと帰っていった。どうやら幸樹が見つかったらしく、警察署によって帰るらしい。幸樹は、むろんの事ながら九十九里浜を全速力で爆走していた所、大量発生したヒトデに襲われていたそうだ。

「愚弟だが、大事な弟だ」

 といい、彼女は帰った。聯合の手が無くなったのだから、当たり前でもあるだろう。

「………さて、寝るか」

「そうですね」

 そう言いながら、二人はそれぞれの部屋に入って行った。

 見慣れた自分の部屋。この部屋に来て、すでに六年にもなる。その長い生活の間、この部屋の内装は大きく変わったことがない。

(………これで、終わりなのか?)

 絵梨は、大丈夫、と言った。聯合のゴブリンを倒し、聯合の検分役を説得したのだから、しばらくはこの町に来るはずも無い。それは、あの二人も保障してくれた。

 では、総連はどうなのだろうか? 二つの勢力の片方が片付いても、もう片方が残っているではないか。

 しかし、絵梨は、それも大丈夫、と言った。元々、人が魔法使い≠ノ遭遇する事など滅多になく、これから生きていくとしても二度と会う可能性も無いらしい。

 その理由は、ここが日本だからだ。もともと仏教の国である日本では、魔法使い≠ノ覚醒する人間が少ないらしい。その代わり、顕王(シャーマン)やイタコ、霊能力者などの霊的干渉者の覚醒が多いそうだ(黒木の話では、二つは混じらないらしい)。

 ただ、最近――――というより、明治に開国してから、日本は多神教になった。そのせいもあってか、魔法使い≠フ覚醒率が高まっているらしいが、それも微々たるものだそうだ。

 そんな理由があり、大丈夫だと言う。

「………本当か?」

 不意に、そう考えてしまった。そもそも、何度か聯合や総連のゴブリンが絵梨を見つけ、何度も追い返しているらしい。それは、偶然なのか?

(………単に、あいつが強くてどっちも欲しがってんなら分かるが、今日のあの二人に水村への警戒心はなかった。………何度も負ける相手に、対抗策もなくここへ来るのか?)

 何かを見落としている――――――漠然とした疑問が、翔の胸の奥に滞っていた。

 それが分かるはずもなく、夜は更けていく。

 

 

 








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