紅坂はあらかじめ、城の設計図を見ている。そのおかげで、下水道の位置も、上水道の位置も把握していたのだ。入り口も、出口も、である。

 そもそも、セゼル対策にしてきた事だが、功を奏したらしい。

 城を出たところの、植木の中にその入り口がある事も知っている。其処から、排水溝に入り込むと、王女の口に布を被せた。

 臭いが、酷過ぎる。硫黄も、アンモニアの臭いもした。

人体には無害そうにも無いようだ。温泉でもあるのか、などと考えながら、歩みを進める。

 しかし、王女は意外に軽い。運動していないはずなのに、この軽さはおかしいと紅坂は本気で思うのだが、あの食事では大した食事にはならないのも、頷ける。

 問題は、運び方だ。

王女らしくお姫様抱っこにするべきか、おんぶをするべきか。紅坂にはそういう体験も無い上に、女性と接することも極端に少ないので、困る一方だった。

 まさか置いていくわけにも行かず、仕方ないのでおんぶにした。それにして感じる公開というのも、あるのだが。

 背負いながら長い下水道を歩く。設計図の距離が正しければ五キロで町の北端に出るはずだ。

それと、この下水道は現代のものではなく、滝の水と、近くにある火山の物質(思うに、温泉に近い)を流しているようだ。なので、臭いを考えなければ、比較的綺麗な水ではある。少なくとも、地球のよりは綺麗だろう。

「………………」

 暗い下水道は延々と続いていた。

 

 

 

 紅坂が下水道を抜けたときには、もう真夜中になっていた。

暗闇の中を延々と歩いていた上、吸いたくも無い空気に二人分の労働をした紅坂は、疲労が溜まっているようだ。辟易したように、ため息を吐く。

 紅坂以外の人間、つまり王女は寝ているので、誰も気がつかないはずだ。起きていたら、何となく気付くのかもしれない、と紅坂は苦笑した。

 下水道をでた紅坂の前には、向こうまで伸びる塀に囲まれた町が広がっていた。出てきたところは草原になっていて、丁度膝の下まで伸びた草が、風になびいている。

 紅坂は、宵の星を見上げながら、後ろを振り向く。

 丘の上に立つ城。其処から溢れ出る焔の光が、ゆらゆらと揺れていた。

「むにゃ………」

 背中で、王女が気持ち良さそうな寝言を立てていた。その声を聞いた瞬間、このまま両手を放して落としてやろうかと思ったが、止めておく。

 紅坂は、王女を下水道近くの壁にもたれさせると、自分の服を脱ぎ、近くの茂みの影にある草の上へ、かける。

其処に王女を静かに寝かせた。もし下水道を追いかけてきた兵がいたら、見つからないための技術だが、気にする事はないかもしれない。

今気がついたのだが、紅坂の服も、紅坂自身もかなり汚れていて臭いもきつかった。やはり、一日中部屋に篭っていても、お風呂に入っていないからだろう。

 丁度(?)いいところに川が流れている。

紅坂は、水を浴びることにした。水を浴びると風邪をひくような気温ではないし、書物ではほとんどの人間が水浴びを日常的に行っていることを知っているからだ。

自分の上着に、手をかけた。

 

 

「う〜〜〜〜〜ん………」

 寝返りを打ったマイアは、紅坂の服の汗臭さに、悪夢でも感じたのか、唸っていた。やがて、ハッとしたように目を開けると、ゆっくりと身体を上げる。

しばらくぼうっとしていたが、外に居ることと、今までのことを思い出して、叫んだ。

「私、こんな所に居る場合では!」

 自分がどうしてここにいるのか、今何処にいるのか考えもせずに走り出そうとした時。

「止めておけ。今出て行って掴まったら元も子もない」

 それを制す声が、聞こえてきた。

 マイアは、声のほうに振り向いた―――ところで、息を飲んだ。

其処には、上半身裸の、紅坂が立っていた。引き締まった体躯に、短い髪の毛を持つそれは、この世界の人間とはまた違う筋肉の付き方をしていたのだ。

 無論、マイア自身、男性の裸体を見るのは、これが生まれて始めてである。それもあいまってか、ぼうっとしていた。

髪についた水を振り払いながら、紅坂はマイアに近づく。

「少し退け」

 マイアが少し退くと、紅坂は自分の服を取り、水場に歩いていったのだ。

マイアはしばらく呆然としていたが、ハッとしたように表情を変えると、紅坂のほうへ歩いていく。

「如何するのですか? これから」

「お前には、二つの道がある」

 紅坂は服を水で洗い、きつく絞ると其れを着る。

闇夜に映る水で顔を洗いながら、口を開いた。

「一つは、投降して殺されるか。後一つは、王女という肩書きを捨て、このまま逃げるか、だ」

 ひとしきり顔を洗った紅坂は、大きく顔を振るうと、マイアの方を真っ直ぐに見た。

 それ以上、何も言わない。選ぶのはお前だ、という明確な意思を持って、マイアを見ていた。

 しかし、マイアは――――どうしても、聞きたかった。

「私は、如何したら良いでしょうか」

「知らん」

 紅坂は、すぐに断言する。何かを助言するわけでもなく、また、言葉を包むわけでもなく放たれたその言葉は、明確な意思を、さらに明朗なものへとしていった。

マイアは苦笑しながら、寂しい声で呟く。

「ソウ様は、私に安心をくれないんですね」

 その、マイアの悲しそうな言葉に。

「自分で決めれば、後悔はしないだろう」

 紅坂の言葉が、続いた。

 マイアは、紅坂の言葉に驚いた表情を見せた。マイアの眼に映る紅坂の表情は、いつものようにぶっきらぼうなものだったが、何処か、頼もしげでもあった。

しかし、マイアは、すぐに笑顔を作った。王女として、誰かに命令をする時の、安心感を与える笑顔――――紅坂の、大嫌いな笑顔だ。

「では、投降しましょう。上手くいけば、皆さん助かるかもしれませんし」

 紅坂は小さく舌打ちをすると、マイアをもう一度、見た。

 付き合い自体は、少ない。好きなほうでも無いし、疎ましげな感情だって、抱いていた。

 だが、それでも、これはマイアの表情ではないと、感じていた。

「それで、貴様は満足なのか?」

 若干、呆れた様子の眼差しを向けた紅坂へ。

「いえ、満足はしないでしょうね」

 それは、紅坂の考えどおりの答え――――――ではなかった。あの笑顔の口からこぼれた言葉は、あまりにも、予想外なものだったのだ。

紅坂は、驚いた表情を見せた。それを見たマイアに、零れるような笑みが浮かぶ。

それは、悪戯の成功した子供のような表情。それは、先ほどの笑顔とは比べ物にならないほど、美しく、優しいものだった。

「でも、後悔だけはしないと思います。それに、人の不幸の上に立つ生活は楽しくないでしょうから」

 紅坂は、思わず――――笑みを零していた。それはやがておかしなものへと変わり、紅坂の心を侵食していく。

 暖かく、優しい驚き。それはかつて、紅坂の隣に居てくれた友人が与えてくれたぬくもりの、一つであり。

暫らく感じていない強さを、王女から感じた。

 自分と何一つ変わらない、全てを捨て去る覚悟。

しかし、自分とは正反対の、考え。

地球には居なかった人物に、紅坂は心動かされようとしていた。

 

 だから。

 

「一つだけ―――――他の道がある」

 その言葉に、紅坂自身、驚きの感情を抱いていた。

王女が振り返り、歩いて行こうといった時、紅坂はそう告げていたのだ。マイアが驚いたように振り向くと、紅坂は不敵な笑みをむけ、口を開く。

「俺と、誓約しろ」

 

 それは、今思えば、運命というべき、言葉だったのかもしれない。そして、指標であり、紅坂が紅坂であるためのものだったかもしれない。

 

 宵の月は、青く輝いていた。

 

 

 

 

 煉瓦で立てられた家が並び、様々な人が声を上げて商売をしている。そこには様々な人間が集り、生活の営みをくみ上げていた。

紅坂とマイアは人込みに紛れて、広場に居た。

 王宮の謀反は早くも民の間に広がっており、広場には兵士が何人も居た。

 もっとも変わったのは、紅坂の落ちてきた広場だろう。広場にはすでに木々で組み立てられた足場の上に板が張られ、数人の『罪人』を拘束し、座らせている。

 ガルズにクウザ、シャロルにクラウストだ。命にかかわるような怪我をしているようには見えなかった。

 町人の話だと、謀反したのはこの四人で、王女はすでに「セゼルの手によって」国外へ避難するところ、客人として迎えられていた紅坂の手に堕ちた、という。

 その反逆を成功させたセゼルも、我が物顔で其処に居る。今まさに、公開処刑を行うといったところだ。

マイアは飛び出そうとしたが、紅坂に押さえられている。どうしてこんなに元気があるのか、と目の前でじたばたと暴れるマイアを見て、嫌になったのは言うまでもない。

 二人の服は、昨日までのものではなかった。町に入る前に、「不運にも」紅坂に襲撃した一〇人の盗賊が持っていたものである。(そいつらは憲兵に突き出した。両手両足を追っておいたので、暫らくは動けないだろう)

 紅坂の腰には、片手で触れるぐらいの剣がある。日本刀なら心得もあるのだが、西洋風のこの剣では、使いこなせるかどうかわからないが、ないよりはマシだろう。

 ようやく落ち着いたのか、ローブの中からマイアが尋ねてきた。

「大丈夫でしょうか?」

「誓約した、悪魔を信じろ」

 事も無げに言い放つ紅坂の言葉に、マイアは何処か嬉しそうに、「そうですね」とだけ答えた。

 マイアは、悪魔と誓約した。誓約といっても、人間である紅坂とであり、本物ではない。

 しかし、それはマイアにとって、何物よりも勝る言葉であり、安心できるものだった。

紅坂はすでに、全ての作戦を立てていた。それはマイアにも伝えていたのだが、その部分だけは、気になるらしい。先ほどの言葉に続くように、口を開く。

「ですが………。ソウ様は人間ですよ?」

 そのマイアの言葉に、紅坂は鼻で笑って答えた。ローブの中からマイアを見て、不敵に笑った口を大きく曲げ、口を開く。

「『悪魔』と呼ばれていた男を、嘗めるなよ」

 その時、楽勇隊の角笛が、高らかに鳴り響いた。

遠くの方から兵士達の整った歩調が聞こえてくる。人込みに紛れてよく見えないのが残念であった。

 マイアが、紅坂のマントを掴んだ。いつもなら振りほどくのだが、紅坂はそれをしようとしない。変わりに、沈黙でその決意を伝えてやる。

恐怖は、ない。初めての実践にあるという震えの代わりに、耐え切れない嬉しさが滲み出た。

「民衆の諸君、これより処刑を始める」

 一段高い―――――人を見下ろせるぐらいの高さにある処刑台の上から、セゼルが高らかに叫んだ。その脂ぎった表情も、勝ち誇った表情も、全てが気に入らない。

「ここに居るのは、我等が王女を虐殺したものたちであるッ!」

 民衆からざわめきが聞こえる。その中には「信じられない」「まさかっ!」といった悲鳴まであったのを聞いていた紅坂は、意外そうに呟いた。

「嫌われては居なかったようだな」

「少し嬉しいですね」

 殺されている事に成っているのに、こんな所で嬉しがってどうする? と思ったが、紅坂は何も言わなかった。代わりに握りこぶしを作り、相手の頭部を軽く小突く。

 セゼルは、ムカつく事に泣き真似をして、自分が王女のために戦ったのだ、だとか言い放っていたが、紅坂もマイアも気にしなかった。

 どちらにしろ。

「では、これより処刑を始める!」

 これで、天下は終わるのだから。

 セゼルが笑みを浮かべたとき、紅坂はマイアを連れ、列の最前線に静かに移動する。

其処にはボロボロになったクウザとガルズ、クラウスト、シャロルの姿があった。遠めでは分からなかったが、細い十字架に磔にされていて、身動きが取れないようだ。

その上、その前には何人もの兵士が、槍を構えている。おそらく、セゼルの言葉によって、それが四人を貫くのだろう。

「ソウ様………」

 マイアの言葉に、紅坂はフン、と鼻を鳴らす。ここで待っていろ、というように軽く手を挙げると、小さく口を開く。

「さて、そろそろ出番だな」

 紅坂は、兵士の目の前に歩み出た。

そのまま兵士の間を越えようとすると、兵士が槍を交差させ、紅坂を制する。そして、甲冑の奥から、声を響かせた。

「これより先にはいけない。下がれ」

 予想通りの、言葉――――その瞬間、紅坂の世界が色褪せた。武術の鍛錬で至ったその境地を感じながら、口を開く。

「断る」

 次の瞬間、紅坂は宙に浮いた。

この世界の重力は地球よりも軽いので二人の兵士を軽々越え、二メートルはある土台の上に舞い降りる。

 突然の乱入者に、その場はざわめいた。改めてあの四人に視線を向けると、遠くからは判らなかったが、猿ぐつわをされていることに気付く。

 それはそうだ、と思う。この四人の言葉とセゼルなら、間違いなく四人の言葉を民衆は信じるだろう。

 紅坂は、腰の剣を引き抜くと、振り返り様に兵士の槍を斬る。ハッとした兵士の頭部を、回転蹴りで薙ぎ払う。

その兵士が吹き飛んだ次の瞬間には、セゼルが叫んでいた。

「さっさと殺せッ! 貴様らぁ!」

 兵士が構えたときには、もう遅かった。元々広い土台ではないので、槍を構えれば、それだけでスペースは残っていない。

 紅坂は、構えた槍を一本一本、丁寧に斬りおとす。棒だけになった兵士にはそれぞれ蹴りを叩きつけ、ある程度の距離を保つ。

 その動きを、知る人はいない。かつて、戦場にて武器だけを破壊する日本特有の剣術の一つであり、紅坂だけが使えるものだった。

紅坂の戦いは、基本的に相手を無効化することにある。虚を突いて浮ついているところを叩いたり、本来狙うはずのない武器を狙ったりなど、それは一線を画いていた。

全ての兵士を倒したあと、驚いた表情を見せるシャロルの手を縛っている縄を斬った。

 そのあと、他の連中の縄を斬りおとし、猿ぐつわもついでに外してやる。

 ザン、と剣が突き刺さった音の後に、一瞬だけ静寂が訪れたのだった。

「き、貴様ぁぁぁぁぁ!」

 一瞬後、民衆にはざわめきと恐れが、セゼルにははちきれんばかりの怒りが込み上げていた。

 シャロルは、驚いたような表情でこちらを見ている。しかし、紅坂はそれには答えず、バッと手を挙げた。

それを合図に、驚いている兵士の間を、ローブを着た女性(マイア)が剣をなんとか抱えながら、持ってくる。其れを四人に配り終えると同時に、再度、兵士が四人を囲んだ。

「貴方は、誰ですか?」

 シャロルが背中を預けながら、紅坂に尋ねてくる。ローブを深く被っているから、外から見たら分からないのかもしれない。

 紅坂は思わず、笑いを堪えられずに、大声で笑ってしまった。その笑い声で全ての人間が唖然としている間に、紅坂はフードを脱ぎ捨てた。

「こ、コウサカぁ!」

 セゼルが―――――紅坂の名前を覚えていたのに、少しだけ驚いたが―――紅坂は、剣をセゼルに突き出しながら、叫ぶ。

「貴様みたいな単細胞生物に、その名前を呼ぶ資格は無い。気安く呼ぶな」

 民衆の中には、戸惑いの声が聞こえる。中には、紅坂がこの世界に来たときの事を覚えている奴も居るのかもしれない。

 シャロルは、完全に思考回路がぶっ飛んでいるようだった。開いた口が閉まらない、という表情を向けているのが、かなりの滑稽さを感じさせた。

「という事は………」

 クラウストがそんな声を上げた時、王女が、恥かしそうにフードを脱いだ。

その瞬間、群衆から歓声が起こり、セゼルの顔が真っ青になる。クラウストとシャロルはさらに口を開き、唖然としていた。

「で、でも、何でコウサカが………?」

 ようやく驚きから戻ってきたシャロルの問いに、やや不機嫌そうに、紅坂が口を開く。

「お前達の王女様は悪魔と誓約したんだよ」

 シャロルたちが驚く表情を浮かべているうちに、セゼルは自分たちの兵士に叫んでいた。

「何をしておる! あんな物、偽者に決まっておろう! さっさと殺せッ!」

 暴れん坊将軍に出てくる悪代官真っ青な言葉だな、と紅坂が考えていたが、その反応は違っていた。

 兵士達は、動かない。恐らく、槍を突き出した兵士だけがセゼルの息がかかった相手だということを、知る。やはり、マイア王女と隊長の前だったら、従う相手を知るようだ。

其れを見ていたマイアはやがて、寂しそうな目で、セゼルを見た。

「もう止めましょう、セゼル様。何故、私たちが争わなければ――――――」

「黙れ、小娘ぇッ!」

 セゼルが血走ったような目で叫ぶ。王女は悲しそうな表情でその様子を見ていた。

「先代の――――ハルド様に尽してきた私の何がわかるッ! こんな小娘にこの城を任された、この老いぼれの、悔しさがッ! 判ってたまるかアァ!」

 騒いでいた群衆が静まり、広場には奇妙な沈黙が流れた。

 先代、つまりマイアの父親であるハルド・フリークスは、稀代の名将として名を馳せていた。決して戦争が強い民族ではない丘の国が、ここまでの軍事力を持つに至ったのも、彼の功績である。それを知っている住民の中には、確かにマイアのやり方が嫌いな相手もいるようだ。

その中に、セゼルの苦痛と悲痛に満ちた叫びが、響く。

「何故、貴様などに忠誠を尽さねば成らぬッ! あの方は、あの方は私に国を治め――」

 しかし、それはもはや、言葉ではなく、稚児の叫び。もはや主語も、伝える意思も、伝わってこない、わめきの一種だ。

黙れ

 まるで―――――切っ先を研ぎ澄ました槍を首筋に当てられたような、世界の終わりを眼の前に見ているようなそんな絶望感が、その広場を駆け抜けた。

 冷や水を打ったように、辺りが静まりかえる。たった一人の人間の言葉に、これほどの圧力があるとは、誰も知らなかっただろう。

 セゼルの呼吸が荒くなり、その場の空気が確実に重くなった。紅坂は、マイアの後ろから、セゼルを見ている。

 いや、睨んでいた。

「貴様の事なんか判りたくも無い上に、知りたくもねえ」

 紅坂の眼光が、無限に鋭くなる。その場に黒い塊があるような、虚無の世界が、セゼルを中心に、広場を包み始めていた。

 静かに、一歩を踏み出す。闇が、動き出した。

「自分から動けず、先代とやらに尽していただけの貴様が、この俺様の目の前で」

 セゼルの目前で、紅坂の怒りは頂点を極め、その眼光は殺気を放つ。セゼルは足を震わせ、ほんの少しだけ残った虚勢だけで立っているような様子だった。

 そして、闇が眼前に迫った瞬間。

支配できると思うな

 セゼルの、足が砕けた。力が抜けるように崩れ落ちるセゼルの股間には、黄色いしみが出来ていた。

その瞬間――――――――だった。

 

ワアアアアァァァァァァァァァァ!!!

 

 割れんばかりの歓声が巻き起こり、広場に笑顔が取り戻された。それを見た紅坂は、今までの眼差しを和らげると、口を開く。

「これ程までに、セゼルは嫌われていたのか」

 ガルズが、疲れたといったような表情で紅坂の近くで一人呟く。

紅坂は、一人不機嫌そうな表情でソッポを向いていた。自分らしくない、と自分が一番感じているのだろう、少し気恥ずかしそうに頬をかいている。

 それを見ていたシャロルは、不思議な感覚に捉われていた。

 ほんの一瞬前、セゼルを追い詰めていた相手が、今これほど、小さく見える。それが、何となく、好ましく思えた。

 その思考にハッとしたシャロルが顔を紅くして、後ろで頭を振っているのをマイアが目撃した瞬間、声が上がる。

「しかし、コウサカ殿、約束が違う」

 マイアの肩に手を置きながら、クウザが呟く。マイアは驚いた表情で「え?」と呟く。

全員の視線を受ける中、唯一分かっているガルズは不敵に、クウザは亜k里枝返ったように、それでも、笑顔で言った。

「私は王女を連れて遠くの国に逃げてくれといったはずだが?」

 マイアとシャロルは、驚いたような顔で紅坂を見る。その紅坂は、小さく考えたような表情を見せた後、やがて、諦めたように肩を落とした。

紅坂は、頭をかきながら悪びれた様子もなく、何処か呆れた様子で、口を開いた。

「悪魔に、約束が守れるかよ」

 その場に居た全員に、軽い驚きの後――――笑顔が宿った。

ガルズは紅坂の頭を抱きかかえ、拳をこすり付けてくる。その様子を呆れたように見ていたシャロルとクラウストが、微笑んだ。

 

 

 次の瞬間。

 

 

広場は、静まり返った。

たった今、広場に足を踏み入れた男が、大笑いで笑っていたからだ。

その男は、奇妙な存在感を持って、町民の群に近づいた。民衆は、その存在感に押され、道を明けていく。

 今、この広場に響いているのはこの男の声だけだ。いや、男と形容していいのかわからない、ひどく中性的な笑い声である。

「見事」

 男がそう呟いた瞬間、紅坂は身の毛が弥立つ。これまで感じたことのない違和感が、体を貫いた。

「………コウサカ殿」

 ガルズが紅坂を解放し、クウザが静かに横に立つ。紅坂を挟んで二人が立ち、それぞれ剣に手を添えた。

「分かっている」

 そう答え、紅坂も相手の出方を窺った。

 男は、処刑台の上に上ってきた。そのあまりにも大胆不敵で、常識外れの行動と気配に、マイアが怯えた表情で紅坂の服を掴んでいた。

 クラウストとシャロルが、剣を引き抜く。それを紅坂は横目で見て、視線を戻した。

「絶妙なタイミングで、処刑を止め、セゼルを動けなくするとは、大した先見力だ」

 ローブの奥から聞こえてくる声には、まるで感情が篭っていない。

それに、紅坂の斜め後ろに居るシャロルの様子がおかしいことが、気になった。

「………………」

 瞳孔が見開き、唇を噛み締めている。その眼光は怒りに満ち、今にも襲い掛かりそうな気配すら、漂わせている。其れを、最後の理性で引き止めているようであった。

 紅坂が、口を開く。

「貴様は誰だ?」

「最初に名乗るのはそちらだろう? 異界の住人よ」

 ぴくっと紅坂の眉が動いた。驚いたのと同時に、堪えようの無い怒りが、浮かび上がる。

しかし、其処で動くほど紅坂も愚かではない。

 あくまでも余裕を見せ付け、告げた。

「なら、構わん。興味は無いからな」

「そうか。私は、興味があるけど、ね」

 台詞とは違い、男は大して興味無さげに言った。そしてそのまま、周りへ視線を向ける。

そして、王女を見つけると、仰々しく礼をする。マイアは、辺りを見回すと、紅坂から離れ、一つ咳をすると、王女らしくした。

「私は、マイア・フリークスです。貴女は、誰でしょうか?」

「さすが王女、人が出来てらっしゃる」

 男は、ローブを外すとその顔を外気に曝した。

――――黒肌。一番初めに目に付いたのが、その人間の肌の色だ。浅黒の、色のムラも無い綺麗と言うべき染色だ。

 そして、相手は中性的な顔をしていた。声すら中立的なので、男か女か、判る気配も無い。長い髪の毛を後ろで束ねているので、髪型で判断も出来なかった。

その時、広場に前よりも大きなざわめきが聞こえてくる。其れはやがて騒音になり、悲鳴になった。

魔属(デヴィル)』だッ! 『魔属(デヴィル)』が居るぞッ!」

紅坂が辺りを見回すと、町民は其々、悲鳴を上げながら逃げ出していく所だ。それに、クウザとガルズ、クラウストも驚いた表情を見せている。

シャロルは、怒りを完全に誇示するように、剣を構えているのだ。

「貴様あああああああッ!」

 シャロルが飛び出そうとした瞬間、紅坂はとっさに体勢を低くし、足を伸ばす。足をかけたシャロルはバランスを崩し、剣を紅坂の近くに落とし、地面にひれ伏しそうになるところを、抱きかかえる。

 紅坂の腕の中で睨みつけてきたが、紅坂は女男(紅坂が勝手に命名)から目を離さず、そのままシャロルをゆっくり降ろす。

 そして、不敵に笑った。

「『銃』、か。この世界にもあるとはな」

「知っていたか」

 女男が手に持っているものを掲げる。木製の手すりの上に、鉄製の筒が乗っかっているだけの、粗末な物だ。恐らく、単発銃の類だろう、と推測する。

 それでも、最低限の殺傷能力を兼ね揃えているようだった。それを示す女男の顔が、やけに鼻についた。

「――――――ッ!」

 シャロルが驚きの表情を見せる。女男が『銃』を持っていることよりも、紅坂が助けたことに驚いているようだ。

「まあ、異世界の武器はこれよりも高性能だからな」

 全く驚きもせずに、女男は告げる。紅坂は、気にもせず他の事を考えていた。

(この世界には『銃』はまだ存在していないはずだ。それに、かなりお粗末に出来ているようだし………。俺の前に来た神様の入れ知恵か?)

 だとしたら、ただの阿呆だ、と決め付け紅坂は嘆息した。『銃』に警戒する様子すら見せず、立ち上がり、告げた。

「で、何の様だ? 其処の阿呆」

 女男は、動じもせずに、口を開く。

「なに、ただの『宣戦布告』だ。これより三日後、鍛冶の国『ファト』からわが軍勢が攻めてくる。王は、マイア女王が《ジザート》に成るなら、民たちには手を出さない≠ニ。このデジス、確かに伝えた」

 女男――――デジスがそう告げた。

名前でも、性別が判断できない。やれやれ、と内心でため息を吐く。

 其れよりも気になるのは、四人の眼差しだ。シャロルとクラウストは驚きと憎悪を、クウザとガルズは相手を冷静に見据えているようだ。

 次の瞬間、デジスは紅坂に銃を向けた。

全員が警戒する中、デジスが不敵に笑い、口を開く。その眼差しは、紅坂に向けられていた。

「異界の人間の能力は千の兵士に値する。………女王も、その力が欲しくて置いておいたのだろう?」

 紅坂は、女男を見下しながら話を聞いていた。

 確かに、先ほどの動きと膂力を考えれば、その評価は妥当だ。それだけには及ばず、紅坂の持ちえる重火器の知識など、今の軍事バランスを崩すものだ。

 しかし、それには怒りの声が、上がった。

「違いますッ!」

 マイアが、むきになって否定する。その眼差しには、彼女には珍しい怒りの感情が含まれていたが、紅坂は気にするな、と言った様子で、また彼女の頭を軽く小突く。

 そして、不敵に笑った後、デジスへと言い放った。

「そんなことに興味は無い。さっさと消えろ」

「その前に、邪魔者を殺させてもらうよ」

 そういった瞬間、広場に銃声が響いた。

 瞬間的に、紅坂が身を避ける――――――が、その凶弾は紅坂ではなく、失神していたセゼルの頭部を打ち据えた。即死のようで、何の悲鳴も上げない。

 マイアが、息を呑んだ。叫ばないだけよしとしておこう、と紅坂は思っていた。

「では、次は戦場で」

 デジスは高笑いを浮かべながら街中へ消えていった。

 

 

 

 

 紅坂達が城に入る頃には、夕方になっていた。城に入ると、クウザとガルズがセゼルの息のかかった者たちを国外追放し、兵を立て直していた。

 セゼルの遺体は、王女の計らいで丘の上に埋められることとなった。クラウストが式を取って埋めているらしく、あの老剣士の姿はない。

 紅坂は、相も変わらず、蔵書室で読書に明け暮れていた。なんとなく、自分の居場所がここにあると、思ってしまったのだ。

 壊れた窓は補強され、所々に血が飛び散っているが、紅坂は気にもしない。

少しだけ気になったのは、何時もは部屋の外に居るシャロルが、部屋の中にいることぐらいだろうか。

 紅坂がページをめくる度に溜め息と、「あっ………」等と言っている。

 話しかけようとしているのだろうが、紅坂にとって、自分の邪魔者は邪魔でしかない。其れが分かっているのか、シャロルは話しかけてこようとはしなかった。

 話しかけられなければ聞かない。其れが紅坂なので、その状態は一時間続いた。

 不毛なやり取りだ、と紅坂は呆れる。やがて、意を決してシャロルが話し掛けようとした時、紅坂は立ち上がって、本棚に本をしまいに行ってしまった。

 シャロルは溜め息をついて、椅子にもたれ掛かった。

「どうした?」

 紅坂が、本を読みながら聞いてきた。シャロルは驚きの表情を浮かべながら戸惑う。

「え………? で、でも」

 シャロルが戸惑う中、紅坂は言葉を続けた。

「お前の様子がおかしいぐらい、気がつかないと思っているのか? 相談位、何の恩讐も無く受けてやる」

 紅坂が本を読みながら告げる。その紅坂の言葉を聞いたシャロルは、予想すらしていなかった。

 紅坂の思い通り、彼は話しかければ返してくれる。しかし、今まで自分から話しかけてくることなど、そう多くなかった。

紅坂の変化に若干戸惑いながらも、シャロルは小さな声で言葉を繋げた。

「………あのデジスが、両親の仇なのは、気がついていますか?」

「様子がおかしいのは、気がついている。其処まで俺は無関心ではない」

「そう、ですか………」

 何となくおかしく、シャロルが微笑みながらウナ好く。

紅坂は少しだけ恥かしがりながらも、先を促す。

「私は、『魔属』を倒すためだけに、鍛錬を続けてきました………。血を吐くまで、戦って、戦い抜いて、兵士団長まで登りつめることが、出来ました」

 兵士団長だったのか、と別のところで感心しながら、紅坂は話を聞いていた。

 シャロルは、椅子の上で両足を折りたたむ。それを胸に抱きながら、

「でも、実際あいつの前に立ったら、冷静さを欠いていました。コウサカが止めてくれなければ死んで、………よく分かっていたはずなのに………」

 シャロルが両足を抱えながら、震えた声で、消え入りそうなつらい声で呟く。やがて、足に額をつけるように、頭を乗せた。

「悔しい………」

 シャロルが、そう呟いた瞬間――――バンッと大きな音が響いた。

それにシャロルが驚いて顔をあげると、紅坂は珍しくこちらを一心に見つめていた。本を机に置きながら、頭をかきつつ、口を開く。

「じゃあ、貴様はあのデジスを殺したいのか? それとも謝って貰って、罪を償ってほしいのか?」

「………」

 何も、答えられない。しかし、それでも紅坂は、シャロルに尋ね続けた。

「それとも二度と目の前に出てきて欲しくないのか? 怨みながら生涯を終えたいのか? 『魔属』を滅ぼしたいのか? ………お前は何がしたいんだ?」

 紅坂の眼は、何処までも鋭く、冷たい。その眼差しを受けたシャロルは、言葉に詰まったように、それから顔をそらす。

 次の瞬間、紅坂から呆れたようなため息が聞こえてきた。それが、何故か、突き放されたような感覚を与えたのだった。

 慌てて見上げた先には、いつもの紅坂の表情が、あった。

 紅坂は、少しがっかりした表情をしている。少しだけ怒りの眼差しを向けたまま、答えた。

「機会を作ってやる。その時に殺すんだな。………ただし」

 紅坂は、机の上の本をとりながら、言葉を続ける。その中で、シャロルの方を鋭い眼光で睨みつけながら、言い切った。

「お前のそれは、『魔属』を滅ぼさない限り続く事になり、争いしか、産まないぞ?」

 その紅坂の言葉に、シャロルは何も言えなくなってしまう。

そして紅坂は、そのまま、読書に入ってしまう。シャロルは何もいえず、また、何も出来ず、足を抱いていた。

 結局、夕食まで一言も喋らなかった。

 

 

 

 

 

 


 







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