「今度は、ソウ様の世界を教えてください」
マイアが、そう切り出してきた。紅坂は本を終いながら聞く。
「もう、教えただろう?」
「それは、人間の出来方であって、ソウ様の世界のことではありません。私が知りたいのはソウ様のことです」
笑顔で聞いてくるマイアに、シャロルが慌てた顔をする。多分、昨日のことを話されると思ったのだろうが、紅坂はそれをいう気は無かった。
「何から、話そうか」
自分が生まれたときからの世界の情勢を話していた。地球の、生まれた日本の風景を、事細かに教えた。マイアも、シャロルもそれには興味身心で聞いている。
地球は丸く、海は広く、青い。茜色に染まる橋の上から見た河川敷。そして、紅坂が出てきた時が、世界的イベントのクリスマスで、それの起源や雪の話をした。
「雪ですか………………。見てみたいですね」
話を聞いていたマイアが、少しだけ顔を綻ばせて、そう呟く。
この世界は一年中暖かく、雪(こちらでは、『神の贈り物』というらしい)が降らないそうだ。一生の内でも見られる人はそう居ないらしく、それを見られた年は、例外なくん豊作に恵まれ、平和が訪れるという。
この二人はまだ見たことが無いそうだ。随分と誇張された話に、紅坂は鼻を鳴らす。
「そんないいものでもない。ただ、冷たいだけだ」
その時、廊下の向こうからクラウストの声がした。どうやら一日中探していたようで、その声は何処と無く疲れているようだ。
ガタッと、前の椅子が動く音がする。視線を向けると、マイアが立ち上がっていた。
「見つかる前に、戻りますね」
マイアが笑顔でそういうと、踵を返す。
いつに無く素直だな、などと思っていた紅坂は、眼を逸らすと「二度と来るな」といっておく。
マイアは、少し振り返る。その表情は、笑っていた。
「行きましょう、シャロル。ソウ様の食事は持ってこさせますね?」
紅坂は答えなかったが、軽く手を挙げて応じる。マイアは了承と受け取ると、部屋をシャロルと共に出て行った。
急に、蔵書室に静寂が訪れる。女性三人で姦しいというが、二人(実質一人)でも姦しいのは、何処でも一緒なのだ、と思う。
紅坂は、大きく溜め息をつくと肩を落とす。
「疲れた」
心なしかげんなりしている様だが、気を取り直すと、近くに伏せておいた本を開く。
今は、この近くの地形図とこの城の設計図や、原材料を調べているところだ。
驚いたことに、こと建築に関しては、日本の古来よりの技術と、そう大差は無いことに気がついた。
日本の今の、歴史ある建築物は、釘等を使ってかなり補強をしているが、釘を一つも使わないで何百年と立っていることが出来るのは、広く知られている。
はっきり言うと、それと近いのだ。
つまり、この建築は、海楼石と呼ばれる非常に軽い石と、檜に近い柔軟性に富んだ木を使って、釘を一つも使わずに建っているのだ。
釘は、後ろの滝のせいですぐに錆びてしまい、其処から崩壊する可能性があるから、というのが一番の理由らしい。柔軟性が在り、ある程度の湿気に耐えられるエキキスという樹木の枝を、海楼石を砕いて作ったコンクリートのようなもので作りあげているのだ。
どうやら、この世界には地球に近い技術があるらしい。
(………いや、近すぎるな)
近すぎるのだ、と紅坂は眉を潜めた。
その技術が、この大陸で生まれた物ではなく、別の、紅坂自身がまだ判別していない所からの干渉というところが、怪しい。
しかし、判断できる材料がない。今のところ一番可能性が高いのは、一つ。
「………俺以外に、地球人が居る?」
在り得ない話では、ない。
此処に跳んできた理由がわからない今、自分以外の地球人が居てもおかしくないのだ。紅坂自身は使うことが出来ない建築技術も、その人物が持ってきた,という可能性がある。
さらに書を進めると、気になる話が在った。
「一番始めの人間が………、アダムとイブ………?」
怪訝な思いと共に、紅坂の推測が、段々深まっていったのを感じた。
最初の人間を創るのは、格段、おかしい事でもない。文化の始まりは宗教にあることが多いし、その聖書が人類創世物語を創り上げていても、別段おかしいわけではないのだ。
ただ問題なのは、その最初の人間の名前が、地球と同じ、ということだ。
はっきり言って、その符合自体、ありえない話だ。知ってのとおり、アダムとイブは旧約聖書に書かれている人類の名前であり、その大元の宗教はキリスト教なのだから。
日本では古事記など、文明が起こった地域で分かれる事のほうが多い。偶然というには、あまりにも馬鹿げている符合である。
さらに、何かを探そうとしたとき、扉が叩かれた。
「食事をお持ちいたしました」
その音と共に、扉が開かれ、シャロルが入ってくる。片手でお盆を、片手で重い扉を難なく開けた彼女は、紅坂の近くにあるあいているテーブルへ、それを置いた。
パンに近い主食とスープの、質素なものだ。紅坂が頼んでいたものだが、其処にコウロ茶が添えてあるのを見ると、気を使ってくれたらしい。
紅坂自身、そのお茶を気に入っている。決まった淹れ方があるかどうかわからないが、その香り高い葉の匂いと澄んだ後味は、頭をすっきりさせてくれる。
紅坂は、彼女が食事を置いた所を見計らって、声をかけた。
「お前、『神様』の名前を、知っているか?」
紅坂の問いに、シャロルは少しだけ意外そうな顔をしていたが、すぐに表情を戒めると、手元でお茶を淹れながら、答えた。
「たしか………、『オツ・シ・リク』でしたね。どうぞ」
手渡しでコウロ茶を渡してくる。それを受け取った紅坂は、軽く礼をいい、佇まいを治すと、そのお茶を口に入れた。それを見届けた後、シャロルは自分の分を、淹れはじめた。
その名前に、聞き覚えは無い。だが、何か引っかかる。近くに適当な洋紙を引っ張り出すと、ペンを取った。
(オツ・シ・リク。………クリシツオ、k―――)
其処で、紅坂の手が止まった。信じられない、と言った様子で眼を見開くと、呆れたように苦笑し、やがてそれが毀れだす。
覚えは無かったが、紅坂は気がついた。
それは、問題のようであり、ただの暗号なのだ。
「くっくっく………」
気が狂ったのか、とちょっと本気で心配そうな視線を向けるシャロルへ、紅坂はなんでもない、と手を振る。ある程度笑ったところで、手を止めた。
ふざけた名前だった。紅坂の最も嫌いな人間でも在り、全ての人が知っている人間の名前でもあった。そして、それが示すことはただ一つ。
(此処に、地球人が居る………。しかも数人規模じゃない)
まだ紅坂が笑っているのを、シャロルは怪訝な表情で見ていた。
オツ・シ・リク。全てをローマ字にするとotusirik。反対から読めばkirisuto。つまり、神の使いである『キリスト』を暗号化した名前なのだ。
だが、それを考えて、思い直す。
自分以外の地球人が居て、何をしていたのか。
(年代的には、ローマ字が確立された頃、か)
ローマ字が日本で普及した裏には、キリスト教の布教活動がある。それが天正十三年(一五九〇年)の話なのだから、来た人間はその頃の、熱狂的なキリスト教信者、ということになる。しかも、宮大工の腕前を持っていることになるのだ。
だがしかし、それが正しいのか、といわれれば、小首を傾げるしかない。この考えには、穴がありすぎるのだ。
まず一。
そんなに都合のいいように、地球人―――しかも日本人が来るのか、という事。この書物が出てきたころにはいたはずなので、少なくとも文明が出来る以前の人間ということになる。
その二。
何故、自分達の情報を残さず、あろう事かキリストの事を残したというのか。しかも、紅坂ぐらいの知識が無ければ解読すら出来ないような形で、だ。
可能性としては、本当に偶然過ぎる一致とも考えられるが、暗号にしていた理由も分からない。ただそうなっただけというのも、考えられないのだ。
しばらく考えた後、紅坂はシャロルに声をかけた。
「お前、神は結局どうなった?」
紅坂の問いに、シャロルは近くの椅子を引っ張り出すと、其処に座りながら、思い出したように答えた。
「確か、最も険しい山である『クリムゾン・レッド』の際奥に生きてらっしゃると………。ですが―――」
言葉尻で、シャロルが口籠もる。基本的に言いたいことをずばずば言う彼女には珍しく、言うべきか、言わざるべきか、悩んで居るようだ。
紅坂は、やや苛立ちながらも、聞いた。
「なんだ?」
先を促されたシャロルは、戸惑いながらも、答えた。
「はい。その山に近づくと、人の皮膚に黒い斑点が現れ、血を噴出して死ぬという奇病が出まして………。それに其処には見たことの無い生物が居るという話も在るくらいです。そして、その近くの村では『悪魔』が生まれるらしいです」
紅坂は、顎に指を当てながら考える。人の皮膚に斑点が現れ、血を噴出して死ぬというのは、アフリカ辺りで流行した『黒死病』に近いと思える。
しかし、それは自然に発生したウィルスなので、決め手にはならない。公衆衛生も医療技術も発展していないこの世界なら、十分にありえることだ。
それよりも気になったのは、『見たことも無い生物』に、『悪魔が生まれる』という二点だった。
「『悪魔』ってのは、結局どんなのだ?」
具体例を出せ、という紅坂の要求に、シャロルは困ったような表情を浮かべつつも、言葉を繋げた。
「ええっと………。双子なのに体が一つだったり、右手が二本あったり、目玉がぎょろぎょろしていたりするらしいです。そして、その『悪魔』はすぐ死んで、産んだ人や近くに居た人は苦しみながら死んでいく、というのです。今では人一人居ません」
シャロルの言葉を聞いて、紅坂はある程度納得した。
どうやら、『悪魔』とは奇形児のようだ。奇形児の原因は、妊娠者のタバコ乱用や飲酒乱用、又は水俣病などの原因である〝水銀〟が主な原因だ。
しかし、その近くに居たものすら死ぬ、という事例は、紅坂の中では知りえない。知りえないが、そういう可能性を起こすものを、一つの論文として、見たことがあった。
そして、天啓のように何かが弾ける。サァッと紐解けていく謎に、一種の快感を覚えながら、一つの結論に至った。
その結論の意味する物は一つ。紅坂は、静かに笑う。その横顔を見たシャロルは、一瞬だけ、背筋を寒くした。
そして、小さく、口を開く。
「まだ、生きてやがるのか。その神は」
紅坂は、胸が躍った。全てのピースは集まっていないが、ある程度の推測は立つ。
問題は、色々とある―――が、それはこれから解決していけばいい。暇つぶしぐらいにはなるな、などと想いながら、紅坂はシャロルの持ってきたお盆の上から、パンを取り、口に入れた。
「いったい、如何したんですか?」
シャロルが怪訝そうにそう言った時、遠くから笛の音がした。腹の奥底から響く、重い笛の音。どうやら、城の背後に聳え立つ崖を利用した、連絡手段のようだ。
シャロルがそれを聞いたとき、顔色が変わった。それと同時に、席を立つ。
「クソッ!」
いらだった様子で、シャロルが走り出し、紅坂は、持ってきた食事を少しかじってそれを眺めていた。扉に手をかけたところで、シャロルが振り返る。
「って、「何があった?」とか聞かないんですか!?」
ガァッ、と獣が叫ぶような表情で言われ、紅坂は一瞬、気圧された、それでもすぐに持ち直すと、淡々と言い放つ。
「いや、何も言われなかったし」
シャロルの非難する眼を受けながら、スープを皿から直接飲み干し、パンを流し込む。
ある程度腹が膨れたところで、紅坂は改めてシャロルに向き直り、尋ねた。
「如何した?」
横柄な紅坂の言葉に、シャロルは叫ぶように答えた。
「戦闘です! セゼル殿が、謀反を起こした、と連絡が!」
同じようなテンポで、笛が鳴り響く。確かに、この崖の反響を利用した笛には、一定の統一があるようで、恐らく、城下町まで届いているだろう。
シャロルは、入り口近くに置いてあった自分の剣を取り出すと、振り返りつつ、叫んだ。
「行きましょう! コウサカ様!」
「無理」
シャロルの言葉に、二言目で断った。返答を予測できなかったのか、それともその内容が信じられなかったのか、シャロルは目を逆立てたが、紅坂には武器が無いのを思い出すと、口を紡いだ。
大体、紅坂自身は、喧嘩の経験はあったとしても、人を殺したことはない。多分、いや、絶対に躊躇わず殺せるが、それでも参加したいとは思わない。
それを察したのか、それでも苛立ちを隠さず、シャロルは叫んだ。
「では、扉を閉めてじっとしていて下さいッ!」
そういうと、扉を閉めて走っていってしまった。
紅坂は、コウロ茶をすすりながら、溜め息をついた。
予想通り、セゼルは謀反を起こした。昨夜の会話を聞いていれば、いやでも予想できるし、最初に見た時からある程度、予測もしていた。
しかし、早計過ぎる、とも考えていた。今だに食堂と蔵書室、部屋を行き来しかしていないが、それでもここの兵士が王女を慕っているのを、紅坂は知っていたからだ。
その時、扉が大きく開け放たれ、誰かが飛び込んできた。
その誰かは思いっきり扉を閉め、鍵を閉めると扉の前に机を運んでいく。ガタガタと一生懸命それを並べた後、近くに在った本を積み上げ、壁にしていた。
バリケードを作っているその人物に、紅坂は声をかけた。
「王女、随分お急ぎですな」
「ひゃあッ!?」
紅坂の言葉に、涙声で驚く。泣いているのか、などと若干驚きながらも、紅坂は静かに席を立つと、シャロルが用意しておいたコウロ茶を、自分で淹れる。
マイアは、紅坂のほうを見ると、安心したように顔を綻ばせた。
「ソウ様ぁ、ビックリさせないでください」
「そんな事はどうでも良いが、何が一体」
何が起こっているんだ、と紅坂が聞くよりも早く、重い音と共に部屋のドアが大きく軋んだ。外が騒がしいと思ったら、何十人もの雑踏と押しかける音が、聞こえてくる。
「王女は此処だ!」
「首をとれぇ!」
その言葉が聞こえるたびに、マイアの双眸に涙が増えていく。
外にいるのは、どうやらセゼルの息がかかった兵士達らしい。ドレスのすそが若干すれているのを見ると、一人で逃げ出してきたようだ。
どうやら、かなりショックだったらしく、珍しくしょんぼりとした様子で、紅坂の座っていた椅子に座った。
「ひどいんですよ。皆さん………。クラウストとガルズ様、クウザ様とシャロル以外、セゼル様の兵士によって捕らえられたそうです」
とても悲しげに言う彼女に、紅坂は「ふーん」等とかなり適当に相槌を打つ。王女は溜まりに溜まった鬱憤を言い散らしているようで、内容は一つも気がつかなかった。
「大体、他にも部隊がいたんじゃないのか?」
この城―――ひいては、この国が所有する部隊について、紅坂はある程度の事を、クウザとガルズから聞いていた。
クウザ騎士団隊長を筆頭に、いくつかの部隊に分かれている。その隊長格は王女の事を慕っているので、有事の際でも大丈夫だ、と言っていた。
その紅坂の言葉に、マイアが少しだけ眼を細め、答えた。
「他の部隊は、演習に出ています。この城に残っているのは、騎士団の一部とクウザ様のみ――――近衛騎士団も、いつの間にか、演習に駆り出されていたようです」
なるほど、と紅坂はセゼルに対する認識を改めた。根回しや手はきちんと打っていたようで、隊長格が戻ってくるまでに、自分が頂点になっているつもりらしい。
しかも、その正当な権利が、セゼルにはあるそうだ。大義名分というよりは、ずっと植え続けていた、ありえない展開、というべきだろう。
「どうやら、私に取り入っているクウザ様達を、悪役に仕立てあげるつもりのようです。王族の証である〝朱印〟も押さえられているようですし、さすが、としか」
王族を名乗るには、ある程度の手順があるらしい。王様、もしくは王女に認められ、その家計が貴族を名乗り、多大な貢献を残し、直接〝朱印〟が渡され、それを他国の使者が認めれば、王となることができる。難しい事は略したが、そういうものだ。
なるほど、と紅坂は頷く。それで、他国と通じていたのだ。
その時、外が静かになっていることに気がついた。それに同時に気付いた王女は、せっせと扉の荷物をどかすと、紅坂の後ろに逃げ込む。
「ソウ様、開けてください」
「自分で荷物をどかしながら、何を言うか」
そういいながらも、この人物に勝てるわけも無く、紅坂は従った。とはいえ、マイアと違い、何の警戒もせずドアを開けていた。
すると、其処には兵士の姿は無く、返り血を浴びたクウザとガルズが立っていた。通路には斬られたと思われる兵士が幾人も居て、呻いている。どうやら、殺しては居ないらしい。
ガルズとクウザは、それぞれ武装していた。鎧はほぼ同型だが、ガルズは肩に担ぐほど大きな弩を構え、クウザは細身の剣を二本、手に持っている。
死の臭いを纏わせたガルズが、笑顔で「よう」などと挨拶をしてくるが、紅坂は何も返さない。逆に露骨に顔をしかめると、口を開いた。
「で、如何した?」
「どうしたもないな」
答えたのはガルズではなく、後ろから現れたクウザだった。彼は、静かに首を左右に振ると、疲れたような顔で、口を開く。
「セゼル殿が反乱してきたのだ。いつかはやると思っていたが、少しばかり早すぎたな」
クウザが剣をしまいながらマイアの方を見て、足を付く。ガルズもそれに従い、それぞれ顔をあげると、口を開いた。
「どちらにしろ、今の我々に兵士は居ません………。王女、一度お逃げください」
クウザの言葉に、マイアは言葉を詰まらせた様子で、顔をゆがめた。しばらくの逡巡の後、紅坂へ顔を向けてきた。
ほのかに感じさせる不安の色に、すがるような色を込めた眼差し。
紅坂は、その眼差しから顔をそらす。それを見たマイアが、悲しげな表情を浮かべるが、すぐにそれを戒めると、顔を二人へ向けた。
紅坂と話していた時の様な口調ではなく、今度は真剣な口調で、言う。
「話し合いは、どうですか?」
「セゼルがそんな詰まらん男ではないのは、王女、貴女が一番知っているのではないのでしょうか」
ガルズが、真剣な表情で言ってくる。その表情には、時間が無い、という焦りの色も滲ませている。
セゼルは、先代から絶大な信頼を受けていた軍師であった。その最大の理由としては、その性格にある。
代々、心優しい人格者が多いフリークス一族だが、それゆえ、非情に成り切れず、隣国などから侮られていた。
それを覆したのが、セゼルだ。残虐非道ながらも、先代への忠誠心が高く、汚れ役を買って出ていたので、マイアも信頼を寄せていた。それだけ、今回の事がショックでも、ある。
マイアは、少しだけ寂しい表情を見せると、宣言する。
「分かりました。一度、逃げることにします。皆さん、行きましょう!」
「悪いが、それは出来ませぬ」
廊下の先を見張っていたクラウストが、剣を構えながら断言した。老格な顔立ちには疲れの色が見え、その目には悲観の色も宿っている。マイアが驚きの表情を見せると、諭すように、口を開く。
「もうすぐ、セゼル勢の増援が来ます。私たちが時間を稼ぎますので、お急ぎください」
「しかしっ!」
悲鳴をあげるように声を上げたマイアへ、違う声が続く。
「今は、信のおける手勢が居ません。逃げて、他の隊長格の方々と合流してください」
剣を右手に持ち、左手で頬についた返り血を拭いていたシャロルが、扉を開けながら、マイアに告げる。
マイアは、首を横に振るが、何もいえなかった。何かいえるほど、自分は強くもない。
その時、号令の声が廊下に響き、聞こえてきた。
ガルズは、不敵な笑みを浮かべ、構える。クウザが呆れたような表情を浮かべながらも立ち上がり、二本の刀を引き抜く。それに続くように、クラウスト、シャロルが構えた。
そして、ガルズが口を開く。
「さっさといきな、マイア王女」
それでも、動こうとしない王女を見て、クウザが紅坂に顔を向ける。この状況で、未だに我関せず、という表情を浮かべていた紅坂に対し、クウザは苦笑しながら、告げた。
「では、コウサカ殿。後は頼みます」
「え?」
マイアが怪訝な声を上げた瞬間、彼女の腹に紅坂の拳がのめり込んだ。
見事に腹部へ入ったその拳は、王女の意識を飛ばした。紅坂は、ぐったりとした王女を肩に抱えると、それを持ち直す。
「紅坂、何を―――」
シャロルが大声を上げたが、クウザがそれを腕で制した。訝しげなシャロルの視線を受けた紅坂は、肩をすくめた様子で返し、視線を辺りへ向ける。
脱出ルートを仮定すると、クウザとガルズへ、告げた。
「これは貸しだ。生きてたら、覚悟しろよ」
紅坂の言葉に、クウザとガルズがそれぞれ、苦笑を浮かべる。紅坂は、その二人の表情を見て、満足したように頷くと、近くにあった椅子を、足で寄せる。
想いっきり、窓に椅子を蹴り飛ばす。スタンド硝子を粉々にしながら、椅子は外へ投げ出されていった。
其処から、紅坂は足を?け、かなりぞんざいにマイアを投げ捨てる。それを見た全員から声が上がるが、彼は気にした様子もなく、挨拶も無しに、出て行ってしまった。
呆れた様子で口を開いているシャロルへ、クウザが告げた。
「コウサカ殿に、前もって頼んでおいたのです。首は縦に振りませんでしたが、ついでに連れて行ってくれるそうですよ」
廊下の向こうから兵士たちの規則正しい音が聞こえる。
そう時間も無いらしい。そう判断した四人は、顔をそれぞれ見合すと、頷きあった。
「扉を閉めて、篭城しているように見せるか。クラウスト殿、シャロルと共に、中にいてくれ」
「了解した」
ガルズの言葉に、クラウストとシャロルが蔵書室の扉を閉め、バリケードを創る音を鳴らしだす。
それを聞きながら、ガルズは苦笑めいた表情を隠さず、クウザに顔を向けた。呆れたように、それでも何処か嬉しいのを隠さず、口を開く。
「ありゃあ、本物の悪魔だな。あ~あ、生き残ったところで、楽しみも無い」
通路の向こうが、あわただしい。弩を構えたガルズを見ていたクウザは、それでも何処か嬉しそうに、口を開く。
「何。君と私が居れば、そう易々と負けはしない。あとは、コウサカ殿に、加減してもらえるように頼もうではないか」
静かに剣を構え、ガルズは不敵に笑って答えた。
やがて、波のように現れた兵士へ、二人の叫びが対峙する。
「クウザ・ハードナー。参る!」
「ガルズ・マッケンジー。首を取るつもりなら、死ぬ気で来やがれッ!」
鬨の声が、鳴り響いた。