神社の境内は、景観からして一変していた。

 

そこかしこに白い粘膜の糸が張り巡らされ、既に博之と美袋が紐に囚われていた。絡みつく蜘蛛の糸をどうにかとろうと暴れるが、さらに巻き付いていく、悪循環を起こしている。

その蜘蛛は、今まさに皐へ襲いかかろうとしているところだった。

 其れを見た研一は、不思議と、驚くことも、止まる事もなかった。

ただ全速力で、その蜘蛛へ向かって駆けていく。その途中、足元に落ちていた木の棒を、ただ自分の意識外で拾い上げていた。

 八本の足―――その内の一本を、思いっきり殴り飛ばす。研一よりでかいとはいえ、さすがに勢いもあってか、その巨躯がよろめいた。

 奇声が、その場に木霊する。恐怖を感じるよりも早く、怪物の足元を通り過ぎると、皐の手をとった。

「逃げろ!」

 突然の救世主に驚いているのか、声が出ていない。研一は構うことなく、思いっきり引っ張り出し、自分に手繰り寄せると、そのまま体を入れ替え、背中を境内の階段へ向かって押し出した。自分も其れに続いて、駆け出そうとする。

 が、しかし、そう甘くはいかなかった。

蜘蛛は素早く反転すると、白い糸を吐き出した。その球体のような糸は見事に足へ命中し、研一は体勢を崩し、目の前の皐まで巻き込んで倒れこんでしまった。

皐をかばうように倒れたが、足を捻ったのを感じた。内心で、舌打ちをする。

 腕の中で、彼女が、怯えているのが分かった。

気味の悪い足音と這いずる音が聞こえると、彼女が身体に抱きついてくるのが分かった。

 人間の吐息でもなく、今まさに目の前の獲物に対して舌なめずりをするような、怪物の息。

後ろに湿っぽい気配を感じた瞬間――――またもや、奇声が響き渡った。

 

 しかし、今度は襲い掛かる前兆ではなく、悲鳴に近いもので、人間の出すものではなかった。

 

振り返ると、先ほどの少女―――レンカが、手に持っていた槍で蜘蛛の身体を貫いていたのだ。だが、先が折れているため、完全に刺さる事も無く、傷が浅いのは彼女の表情からも読み取れた。

 そして、力量の差は歴然だった。

蜘蛛が大きく脚を振り払い、それが直撃した彼女は、そのまま吹き飛ばされていった。

境内の灯篭に叩きつけられたレンカが、くぐもった悲鳴をあげる。傷が開いたのか、痛々しい表情を浮かべた。

質量も膂力も違う相手に、彼女は苦々しそうに顔を歪める。その双眸には、ただ怒りのような炎の色が、見て取れた。

 皐の体から、不意に力が抜けた。

驚いて振り返り、息を確認するが、彼女は気絶しているだけのようだ。安堵の息を吐き、捻った足を無理やり立ち上がらせると、彼女を境内にある像の裏側の影へ、座らせた。

 レンカは、傷ついた身体ながらもすでに立ち上がり、戦っていた。腰に下げていた剣を抜き放ち、どうにか蜘蛛と対峙している。

 その間に、研一はつかまっている二人を助けるため、動いていた。蜘蛛の糸は随分と硬かったが、固まりきる前だったので、手で剥ぐ事が出来たのは、幸いだ。

 ずっと暴れている美袋を開放した瞬間、彼女は今にも食いつかん勢いで、叫んだ。

「何だよ! あの野郎!」

 しかし、目の前で暴れる蜘蛛をみて、動きを止める。生まれてこの方、これほど大きな蜘蛛を見た事が無い―――当たり前だが―――美袋へ、皐が居る方向に指を差し、叫んだ。

「隠れて! 博之も頼む!」

 そういい、またもや木の棒を拾い上げる。足を引き摺ったまま振り返った研一へ、博之が叫ぶ。

「お、おい! あぶねぇぞ!」

 しかし、研一は足を止めず、叫んだ。

「ほうっておけないだろ!?

 痛む足を押さえ、走り出す。蜘蛛は、未だに彼女と対峙してこちらに注意を払っている様子は無い。

勢いを止めずに、彼女に注意が行っている蜘蛛の脚を、思いっきり殴り飛ばした。体毛のような細い毛に護られた、細く長い脚――――蜘蛛がこちらに注意を向けた瞬間、レンカが威勢よく、叫んだ。

「貰った!」

 彼女が折れた剣を盾の向こうから、顔面に向けて突き出す。その軌道は、確実に相手の頭部を貫き、絶命させることが出来る――――

 が、その刃は、蜘蛛の口元で火花を光らせるだけで、貫けなかった。勢いが弱く、しかも遅かったその突きを見た瞬間、レンカの顔が絶望の色に染まる。

蜘蛛が振り返ると同時に、脚で彼女を薙ぎ払う。

 返す脚で、研一を振り払ってきた。一瞬の判断で木の棒を掲げるが、それは一瞬で折れ、右腕が軋む音と共に吹飛ぶ。

「………ッ!」

 初めて、体が宙に浮くのを感じた。それとほぼ同時に感じたのは、脳髄を焼ききるような激痛と、骨の軋むような感触だった。

二転三転、転がった後、ようやく体が止まる。

 神社の石畳の上に、血が落ちた。あまりの激痛に、現実味さえ危うくなるが―――意識をなくすよりも早く、自分が立っている事に気がついた。

 

(………あれ? なんで)

 

 右足は捻ってしまい、脳を貫くような痛みを発しているのに、目の前のこの現実すら、まだ信じられないのに―――立つことが、出来た。自分の背中に、ほんの少しだけ感じる視線を、ただ支えとして、立てた。

 奇声を上げ、こちらを威嚇する蜘蛛。

フラッシュバックする風景の中で、以前にこのような光景を見た事がある、と頭で理解した。

 

 そして、蜘蛛の脚が――――研一を貫く。

 

 ガキッ――――

 

 異音。それに眼をハッとさせると、レンカが盾を構え、目の前に立っていた。両手で盾を押さえながら、叫ぶ。

「は、早く逃げろ! 貴様では―――」

 何かをいうよりも早く、蜘蛛のもう一本の脚が彼女を薙ぎ払う。

盾で軌道を塞ぐが、一瞬遅く、しかも圧倒的な力の差により、レンカが吹き飛ばされた。その瞬間には飛び出し、その身体を受け止めるが、しかし勢いを消す事は出来ず―――――研一共々、足が浮く。

 彼女を抱きかかえたまま、境内の灯篭へ突っ込む。背中に激痛が走るが、それを確認する前に彼女に異変が起きていることに気が付く。

 顔色が、悪い。何故、と思うよりも早く彼女の右腕が折れ曲がっている事に気がついた。

「だ、大丈夫!?

 研一が彼女の身体を抱きかかえながら、聞く。しかし、彼女は答えることなく、小さく呻くだけだった。

 研一は、顔をあげる。蜘蛛は、巨体らしく緩慢とした動きで―――否、急がなくても餌にありつけるという余裕の動きで歩き出す。

 しかも、動きの方向はこちらではない。皐達のほうだ

(どうする!?

 この状況を切り抜ける方法は、間違いなく、腕の中の彼女しか分からないだろう。少しだけ苛立った声で、叫ぶ。

「何か手は無いのか!」

 突然の研一の叫びに、怪我をしたレンカは弱々しく見上げ、苦々しそうに表情を歪める。それをみて、研一はダメか、と思った。

 しかし、レンカは小さく、呟いた。

「誓約≠キれば、あるいは………」

 突然、レンカが言った言葉――――研一は、眉を潜めた。

「誓約=H あの、円卓≠フ戦いがどうとかの………」

 研一の返答に、レンカは難しい表情をした。苦々しそうに蜘蛛の方向を向きながら。小さく睨みつけていた。

 その時だった。耳に声が届いたのは。

 

 

「アメーリア。『許可』する」

 

 

 淡々とした、感情の籠もっていない声。

それが響いた瞬間、突然辺りが明るくなった。まるでカメラのフラッシュのように、突然。

 

火柱が、煌々と立ち上っていった。

 

 蜘蛛が火柱に包まれている。それに気が付いた時には、蜘蛛は絶命していた。何故分かるかと聞かれれば、こう答えるしかない。

一瞬で灰となったものが、生きているわけが無い、と。

 煌々と輝き、一瞬で闇を昼間に変貌させた、その炎の前。

ふわりと現れたのは、一つの影。黒髪と黒い服装に身を固めた、ゾッとするような美女―――彼女は、フッと微笑むと手をこちらに差し向けた。

 そして、形のいい唇を、動かした。

「『灰燼の魔手』発動を進言します。ソウ様」

「『却下』だ。誰に手を向けてやがる?」

 突然後ろから聞こえた声に、研一は心臓を跳ね上げた。

ポンと肩を叩かれ、そちらのほうを向き、叩いたのがソウだという事に気が付く。眼をぱちくりさせていると、彼が口を開いた。

「変な奴に好かれる性格は、変わらないらしい」

 しかし、その声音に戸惑いや不安の色は見て取れなかった。

 

 

 

 

 皐と博之、美袋を連れてソウの家に戻ったのは、時計の針が午前を回った頃だった。

 黒い女性は、アメーリアという名前らしい。レンカとは何かしらの確執があるようだったが、ソウの断固とした『拒否』により正面衝突は避けられている。

 皐と美袋、博之は当然の事ながら、説明を求めてきた。

事情を知っている研一とソウは、それぞれ話し合い、彼女達をソウの家の居間に通した。無論、アメーリアとレンカもいるが、研一はもう、何も言う事はなかった。

 全員が集まった部屋の一室で、ソウは淡々とした口調で事の経緯を話してくれた。

円卓≠ニいう事象のこと、それが今まさに始まったところであり、ソウがアメーリアと共に参加した、という事実。

 手元にある御茶を飲みつつ、ソウは締めくくる。

「まぁ、犬に手を噛まれたようなものだ。心配しなくていい」

「………お前、後先を考えろよ」

 怪物に襲われていた博之は、どうもソウの行動が軽率に映ったらしい。確かに、普通の人間はそう思うし、間違いでは無いだろう。

しかし、研一としては今に始まった事ではないので、特に感じなかった。むしろ、彼がこういう事象に巻き込まれるのは当然の事だ、と思ってすらいた。

つまるところ、小説とかにある「主人公」の器を持つのは、ソウぐらいしか居ない。いつ巻き込まれるのか、逆に楽しみにしていたくらいだ。

 それを証明するように、アメーリアが口を開く。

「マスターであるソウ様は、稀代に見る大器です」

 淡々とした、それでもどこか嬉しそうなアメーリアの言葉に、隣のレンカが静かに唸る。どうやら、彼女達の中で『王』の素質が分かる能力があるらしく、その能力にとってソウは申し分ない力の持ち主らしい。

 そうだ、とも思う。既に免許皆伝の腕前を持つ古武術と共に、あらゆることを三回で完璧にこなす才能――――世界広しといえど、彼ぐらいだろう。

「………で? アンタも誓約≠ニやらをしたのかい?」

 かなり不機嫌な声で、美袋が聞いてきた。研一は隣のレンカを確認した後、慌てて両手を振り、否定した。

「いや、僕じゃ、役不足だし。………いいかな、て」

「………」

 レンカは、何も言わない。アメーリアを睨みつけているように見ているだけで、研一を気にかけもしなかった。

しかし、研一はソウに告げた。

「でも、しばらくは彼女をこの家に置いて欲しい。この家だったら広いし、お前は何もしないだろうし………」

 研一の言葉を察したソウは、すぐに頷く。しかし、その後若干の逡巡を見せた後、其れをすぐに消すと、口を開いた。

「―――まぁ、いいだろう。レンカとかいったか?」

 しかし、レンカは首を横にふった。どうやら、ソウの事も敵だと認識したらしく、その眼差しには、ありありと警戒の色が映っていた。

「敵の情けは受けない。宿ぐらい、どうにかする」

 そう斬り捨て、彼女は立ち上がろうとする。放っておけば、本当にそのままどこかに行ってしまいそうな彼女の前に、誰かが立ちふさがった。

その彼女を止めたのは、意外にもソウ本人。彼独特の、不機嫌そうな顔を隠しもせず、口を開いた。

「………具体的には? 金も無いお前が、どうやって衣食住を確保するつもりだ?」

 その言葉に、彼女の動きが止まる。そのまま汗が噴出し、狼狽するレンカは、違う世界の存在といわれても、胡散臭かった。

その様子を見た後、ソウは続けた。

「お前たちだって、人間と全面戦争をするのは避けたいんだろう? さらに言えば、この国は完全な法治国家―――身元がしっかりしていないと、宿すら取れない。上手く取れたとしても、御金も無くてどうやって過ごすつもりだ?」

「………くッ」

 忌々しそうにソウを睨みつけ、しかしすぐに視線を外す。正論を言われ、返す言葉も無いようだ。

 とはいえ、さすがはソウだ、と研一は思う。円卓≠ノ関しては詳しく分かっていないが、大元に人間の協力を求める事から、人間との対立関係は築かないはずだ。

仮に、この屋敷を力で奪い取るとしても、元にかなりの差が在り、誓約≠終えたアメーリアには勝てないと知っているらしい。

 しかし、ソウの手助けを受けるのはどうにも嫌らしく、最終的には研一へ救済の視線(怒りの視線だろうか)を向けてきた。

その視線を受けて、研一は何もいえなくなる。

それに気が付いたのか、はたまた何か思い立ったのか、彼女が告げた。

「私は研一の住居に行く。………手を出さないでくれれば、明日にでも出て行く」

 もはや決まったような言葉に、研一は自分の部屋を思い出し、彼女をソファーにでも寝かせればいいだろうと思い、仕方無しに頷く。

「………まぁ、寝るぐらいなら」

 誰かが何かをいうよりも早く、レンカは立ち上がる。突然のレンカの行動―――そのまま、研一の首根っこを掴むと、ソウに言われて剣と槍をつめておいた袋を背に、歩き出す。

「さぁ、いくぞ。家はどっちだ?」

「いててててッ!? 案内するから離して!?

 彼女が聞くはずなかった。

 研一達が去っていった後、美袋が叫んだ。

「何アイツ!? 何で研一の家に泊まることになってんの!? 勉強会は!?

 さすがに怖かったのか、はたまた怒りだすタイミングを失っていたのか分からないが、美袋が大きな声で叫んだ。その突然の咆哮に、博之も呆れた様子の溜め息を吐きつつ、頷く。

「アイツは、どうしてああも流されやすいのかね?」

「………生まれついての、巻き込まれ体質なんだ。ま、あいつの事だから明日の朝ここに来るだろ。ほれ、寝るぞ?」

 ソウだけは、何一つ変わらなかった。

 

 

 

 

 ソウの家から歩いて二十分、引き摺られて三十分ほどだろうか――――研一の住んでいる一軒家の前に着いた。一階建ての古い木造建築だが、内装や生活場所は完全にリフォームしてあるので、居心地はいい。

 一軒家。

これは、研一の所有物となっている。両親の親バカが講じてか、家賃がかからない事=家を持つという思考で購入された物件だ。土地代含めて1千万也という、格安物件である。

 そんなことを思っていると、レンカが手を離した。改めて研一のほうを見下ろすと、バツの悪そうな表情を浮かべながら、口を開く。

「すまない、手荒な真似をしてしまって、な。アメーリアの前に、居たくないんだ」

「いや、僕はいいけど………」

 酸素も十分に吸えていないので咳をしたが、死ぬ事は無い。顔が紅くなるのを身で感じながら(今迄は紫色だ)家の鍵を開けつつ、尋ねた。

「でも、どうして嫌いなんだい? 知り合いなんだろ?」

 研一の当然過ぎる疑問に、彼女は淡々と答えた。

「………知り合いだが、最強の敵でもある。私が勝ち取ったはずの扉≠横取りして、私を落としいれた」

 彼女達が円卓≠ノ参加するには、扉≠通る必要があるらしい。それは、地球に繋がっている道のようなもので、一つに付き一人しか通れないそうだ。

最後の一つと思われていた扉≠通ろうとした瞬間、アメーリアに邪魔され、諦めていたそうだ。

「偶然か、必然か、今まで見つかっていなかった扉が近くにあってな。まったく、私は運がいい。これも、先代の神の御意思だろう」

 喜びを噛み締めるように頷く彼女を、とりあえず家に上げた。

 中は、はっきりいって物が少ない。一人暮らしを初めて半年、時間も無かったと言う事もあるが、なにより必要最低限の物が揃っているので、その分食費に当てているのだ。

「あ。靴を脱いで」

 さっきソウの家では完全に土足だったが、この家だとそうはいっていられない。部屋の掃除をしないから、下手に汚されると困るのだ。

 しぶしぶ、と言った様子で装甲がついたブーツを脱ぐと、勝手に慣れていないのか、戸惑っていた。

 時刻としては、夜の二時。そろそろ眠らなければ、明日に支障をきたすだろう。

 少しだけ考え、未だに玄関で足踏みをするレンカへ、声をかけた。

「今、布団を敷くから。どうだろう、タオルケットだけでいい?」

「………『たおるけっと』?」

 怪訝そうな彼女の言葉に、研一は気が付く。

この世界のことを何一つ知らないのだから、何がいいかと聞いても答えられないだろう。

 よくみれば、彼女の身体は傷だらけで、汚れていた。その状態が普通なのだろう、彼女は気にした様子も無いが、家を汚されるのは困る。

 ちょっとだけ悩むと、口を開いた。

「こっちに来て」

 彼女を家の居間に送り、ソファーに座らせた後、家の奥底に眠っている救急箱を引っ張り出してきた。基本的に怪我をしても無視するか、ソウに任せてしまうのだが、今回は研一の出番である。

物珍しそうな顔で辺りを見渡している彼女を見て、研一はテレビを点けつつ彼女の手を取った。腕をじっくり眺めながら、小さく呟く。

「………深い傷は、ないかな。鎧は、脱いでおいてくれ」

 水で濡らしたタオルで、汚れをぬぐいとる。傷に沁みるのか、呻くが気にしていられない。

一通り綺麗にすると、今度は消毒液をつけた綿で、彼女の傷を消毒する。小さな傷はバンソウコウで保護し、右腕は傷が多いので、ガーゼで押さえるとグルグルと包帯を巻いた。

 そこで、気がつく。折れていた腕が、いつの間にか真っ直ぐくっついていたのだ。驚きで言葉を無くす研一へ、レンカが眉を潜めつつ、口を開く。

「どうした?」

「あ、………いや、なんでもない」

 思えば、彼女は別世界の存在―――傷の回復速度も、人間とは違うのだろう、と勝手に納得する。

 頭にも怪我をしていたので、ガーゼを当てつつ包帯を巻く。ずっと不思議そうにみているレンカを見つつ、全ての処置が終わった。

 薬箱から抗生物質を出し、それを渡しながら告げた。

「傷口から細菌が入るとマズイから、これを飲んで―――と、お腹すいているなら、何か入れないとまずいな。腹減ってる?」

 研一の言葉に、レンカは若干驚いた様子を見せた後、口を開いた。

「あ? あ、ああ。ここ最近何も食べていないから………」

 呆けたような言葉に気が付くわけも無く、研一は少しだけ考える。何があったか思い出し、頷いた後、研一はレンカに視線を向けると、口を開いた。

「あれだ、鎧はそこら辺に置いておいてくれるかな。剣なり槍なりも、な」

そのままキッチンに向かい―――辟易する。

 家のキッチン―――カップ麺のゴミなどで荒れているが――――の棚から、昨日間違えて買って置いた焼きソバパンを引っ張り出し、レンカに向かって放った。

 ポンとそれを両手で取った彼女へ、声をかける。

「少し片付けるから、それを喰って待っててくれる? あ、足んなかったら声をかけて」

 そういい、棚から袋を取り出しカップ麺を放り込む。少し経った後、レンカから声が上がった。

「あ、研一。悪いのだが、このパン喰えないぞ?」

「は?」

 彼女のいっている意味が分からず、振り返って、納得した。彼女の唾液がついたビニール包装紙と潰されて千切れている中身を見ると、成程、確かに食べられない。

 苦笑し、彼女の所に戻る。不機嫌そうに付き返してくる焼きソバパンのビニールを、難なく開け、中身を少しだけ引っ張り出し、彼女に戻す。

眼をあけ、キョトンとしているのを内心笑いながら、続けて言葉にした。

「外のは包装紙だから、食べられないよ。ほら、これで食べられる」

 そのまま、研一はキッチンに戻る。ある程度片付け終わった後、コップを取り出し冷蔵庫から牛乳を取り出すところで、声が上がった。

「上手い!」

 ズコ、と肩透かしを受ける。

訝しげに見返すより早く、彼女の感涙こもった声が響いた。

「ふわっとしたパンの生地は無論、中心に挟まれた程よい固さの細々としていた何かが塩辛く、少しだけ甘く――――筆舌し難し。………美味い」

 気に入ったのだろう、彼女はパンを充分すぎるほど咀嚼して飲み込み、満足げに頷く。

苦笑しつつも、彼女の趣向が分かってホッとした。この世界に来て、食べ物が口に合わないのは悲しすぎるだろう。

 牛乳を入れ、彼女に渡す。

彼女談、「変な味がする」という牛乳を飲んでいた彼女は、研一がキッチンを片付け終わった頃には、静かになっていた。訝しげにキッチンから顔を出した研一は、その様子を見て、思わず苦笑してしまった。

レンカは、寝息を立ててソファーへ横になっていた。緊張感のないその寝顔を見た瞬間、研一は―――少しだけ、心臓が跳ね上がったのを、感じた。

彼女は、確かに美人だ。使命感をそのまま映し出したような鋭い眼差しに、まるで蝋から切り出したような端正な顔立ち、燃えるような紅い髪。それはもはや、言い様の無い美しさを醸し出していた。

 苦笑し、部屋からタオルケットを持ってきて彼女にかけた。今日の夜は過ごしやすいとはいえ、暑くなるのだろうから、腹の所だけにする。

 全てが終わった後、大きく欠伸をして、床に向かった。

 どちらにしろ、明日には彼女は『王』を探しにどこかに行ってしまう。危険なこの戦いともお別れなのだ。

 そう、何も無かったように、時間は過ぎていった。

 

 

 

 

 次の日、研一が起きて居間に行くと、既にレンカの姿はなかった。何も期待していたわけではないが、こうもあっさりいなくなられると、少しだけ悲しい。

 そう思っていると、大声が響いた。

「け、研一か!? あ、あの! 助けてくれ!」

 声がする方向―――訝しげに向かうと、そこはトイレだった。トイレの入り口から顔を覗かせるレンカは、顔を真っ赤にして、口を開く。

「そ、その、なんだ………」

「………白いタンクの前のつまみを、ゆっくり引いてごらん」

 彼女の言おうとしていることを素早く察知し、研一は教える。サッと彼女の顔が引っ込む。少しだけ間が空いた後、水の流れる音が響いた。

 しかし、中々扉は開かない。訝しげに思っていると、彼女がようやく小さく扉を開け、覗き込んできた。

「………その、すまない。小一時間あそこにいて、腹を切ろうとさえ思ってしまった」

「頼むから、そんな事で腹を切らないでくれ」

 どうやら、知らなければならない事が多いらしい。

 ここで知り合ったのも何かの縁だということで、現代科学を教えることにした。

 それから、彼女へ機具の説明をして回った。お風呂、冷蔵庫、コンロやエアコン、掃除機、消火器など日常必要そうなものは、全て説明する。

「………こんなものかな」

 ある程度説明が終わった頃、時計は十時を指していた。昨日家を片付けていた頃、食料が無いのは確認済み――――どうせなら、と頷く。

「しょうがない。外で食べよう。ついでに、この世界における売買の法則を教えてあげよう」

「お、おお。そうか」

 そこで、気が付く。彼女の服装―――鎧は着ていないが、麻の生地のシャツは少しだけ浮くと思う。

「………ちょっと待ってて。いま服を持ってくるから」

 自分の部屋に戻り、できるだけ綺麗な無地のティーシャツを引っ張り出す。ズボンは長いジーパンしかないが、麻のスカートよりはマシだろう。

 彼女に渡して十分後、レンカと共に研一は家を出た。着慣れない服なのだろう、怪訝そうな彼女を見て、研一は口を開く。

「慣れるまでは大変だろうけど我慢して。『王』を探すにも、この世界に慣れないと」

「………そうだな。貴様―――研一がいうことにも一理あるし、まだ円卓≠燻nまったばかりだ。急ぐ事でも無い」

 しれっと言いながらも、彼女の表情は真剣そのものだ。全く分からない世界の事だ、怖い事もあるだろう。

 そんな彼女の不安を背負いつつ、研一は町へと向かっていった。

 






 


 




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