七月 二十六日。

 朝、五時を回った頃だろうか。

 いつもの習慣で、早く起きてしまう。眠いのだが、暑いし一度起きると眠れない性格の孝治は、朝早くからレストランの修繕を開始した。辺りは既に明るいし、騒音を気にするような場所でも無いのだから、気にしないのだ。

 裁断機のスイッチを入れ、材木を切り出す。とはいえ、裏山から切り下ろした木も少なくなってきた。

「いてて………」

 皮膚がひりひりする。炎天下、オイルを塗っても焼けるほど強い日差し―――軽い火傷になっていた。とはいえ、この生活のおかげで腕が一回り太く、身体も鍛えられてきたような気がする。

 というわけで、材木を取るためチェーンソーを持って、裏山に向かうことにした。

 ただ、切ってすぐ使えるわけではない。チェーンソーで切り倒して皮をはいだ後、しばらく乾燥させないとつかえないのだ。皮をはぐのは、虫除けのためである。

物置小屋にあったチェーンソーを引っ張り出した所で、声が聞こえた。

「孝治さ〜〜〜〜〜ん」

 ヒュンと風を切る音―――ボールが、真横を通り過ぎて壁に当たる。それをすぐに足で止め、振り返った。

 ジャージ姿―――上着を腰に巻き、白いタンクトップを汗でびっしょりさせた真理が、息を乱して牧草地に立っていた。

ボールを足で蹴り上げ、手で持つと孝治はつげる。

「おはよう。朝練か?」

「へへっ。おはようございます〜〜。毎朝ここを通ってたからさ。音もしたし、遊びによったんだ」

 満面の笑顔でいう彼女へ、孝治は少しだけ納得しながら、ボールを放り投げた。

「毎朝ランニングを頑張っている子が居るな、と思ったら、君だったか。でもな、後頭部に君のシュートが当たったら失神するから、狙わないでくれ」

 孝治の言葉に、彼女は少しだけ不満そうに、告げた。

「狙ったんだけど、当たんなかったね。シュートの精密を上げるのが今後の目標かな?」

「当てんなっつうの」

 ケラケラ笑う真理を置いて、孝治は物置小屋の鍵を開ける。扉を開きながら、彼女へ言った。

「ああ、練習するなら好きにやっていいぜ? ただ、俺は今から裏山に行くから」

「ええッ!? 練習してよ、コーチ!」

「誰がコーチじゃ!」

 いつの間にコーチになっていたのかは分からないが、彼女は本気らしい。寂しそうに顔を歪める彼女を見下ろし、少しだけ口籠もりながら、頬をかく。

 大きく溜め息を吐いて、頷いた。

「こっちは仕事なんだよ。来月には保健所の人が来て開業できるかどうか決まるんだから、無理言わないでくれ」

「え〜。学校の先生よりも断然上手いんだから、少しは見てくれてもいいでしょ〜〜。ねね、すぐ終わるから〜〜〜〜〜〜」

 孝治の前に先回りし、両手を合わせて懇願する彼女――――孝治は、あきれ返ったような溜め息しかひねり出せない。とはいえ、悪意があるわけではないので、ないがしろにするわけにも行かない。

「仕方無い、か。なら、少し待っててくれよ。今裏山から引っ張ってくるから」

 譲歩して、以前切り倒していた木々を引っ張ってくることにした。チェーンソーを物置小屋において、ロープを肩に担ぐ。

 しかし、それでも不満なのか、彼女はブスッと顔を膨らませた。ただ、我侭は言わなかったが、少しだけ不満そうに口を開く。

「どのくらいで終わるの?」

「………う〜〜〜〜〜〜む。一時間もかかんないよ」

 裏山はすぐ裏手だし、木々は小さく切り纏めている。後は、それをロープにくくりつけて引っ張ってくるだけだ。一つ当たりの重さは六十キロ近くになるが、すでに慣れている。

 彼女は、渋々と頷いてくれた。苦笑しながら、告げる。

「どうせなら、御飯でも食べてきなよ」

「あ、それいいね。じゃ、また来るよ!」

 そういった瞬間には、走り出していた。すぐに点になる彼女の後ろ姿を見ながら、小さく呟く。

「………人見知りっていうのは、大切だよな」

 何となく、そう思ってしまった。

 

 

 裏山を往復し、重い木材を運び終えた頃―――晴海が家の中にいる事に気がついた。この間から家の鍵をかけるようにしたのだが、彼女はどこからとも無く沸いて出てくる。

「どうしてだ?」

 家の扉を開けてすぐ、聞いてみる。珍しく本を読んでいなかった晴海は、少しだけこちらを見ると、告げた。

「窓が開いている」

「ああ、鍵が壊れて閉まんないあそこか。お前ぐらいの身長なら入れるな」

この質問からおよそ十三時間後、何故晴海が答えられたのか、悩む事になる。

 そんなことを考えすらしない孝治は、入り口にかけてあるエプロンをかけると、キッチンに引っ込んだ。朝のうちに作っておいた味噌汁に火をかけると、何かないか冷蔵庫を覗き込む。

 そこで、家の電話が鳴り出した。一週間前に電話線を引いて、家から持ってきた電話をつけたところだ。契約も終え、きちんと繋がる。

この電話番号を知っているのは、三人ぐらいだ。恐らくアイツだろうと思い、電話に出る。

「はい、森繁牧場。ああ、やっぱり誡か」

 電話口の相手は、中古販売店に就職した友人――堺 誠だった。以前からレストランを開く、という名目で中古品を探しておいて貰っていた。

 電話口の男は、いつもよりも傲慢な口調で、告げた。

『ああ、俺だ。ご注文の品、全部そろえたぜ。オーブンに業務用ガスレンジ、冷蔵庫、冷凍庫に簡易窯と業務用ガスバーナー、その他もろもろ。消費税、改装料しめて二十万でいいぜ』

 誠に頼んでおいたのは、安い中古のレストランの調理器具だ。例のログハウスは、改装すればいくらでも使えるが、キッチンは何にも無いのだ。

 彼が提示した金額は、安い。

「………もう少し安くならないか?」

『てめ、俺に首をつれと?』

 電話口の相手の苦笑―――ついで出た言葉は、機嫌の良さそうな声だった。

『とはいえ、友人の頼みだ。十九万九千九百九十八円でいいぜ?』

「二円だけかよ。………なぁ、俺もきついんだから」

『………分かった。十万で手を打とう』

 話が分かる相手でよかったが、一気に半額になるとさすがに申し訳なく思ってしまう。それを察したのか、誠の言葉が続いた。

『っていうか、実際の仕入れ値はタダだから、幾らでも採算がとれんだよ。何でも、障害者支援施設が潰れて、そこから分けてもらったものだからな。とはいえ、型番は新しいし、使いやすいと思う。いつ送ればいい?』

 話が早い誠の言葉に、孝治はカレンダーを見て唸る。今日から改装を始めて、キッチン周りを改装してもらい、保健所に申請と検査をしてもらう―――十日後ぐらいになるだろうか。

「余裕を持って、八月の十日にしとく。んじゃ、御金はいつもの場所でいいんだな?」

『ああ。んじゃ、手続きしておくから』

 ガチャ。

 即効で切られる。早いな、と少しだけ感心しながらも彼は会ったときからあんな調子だったことに気がつく。せっかちだと思われるが、これで失敗した事は無い。

 とりあえず、レストランが出来上がる目処は立った。申請に時間がかかったとしても、年内には開けそうだ。

 振りかえると、晴海が訝しげな(という事にした三白眼)視線を向け、口を開いた。

「その電話、繋がっていたんだ」

「失敬な。………確かに、友達と言うべき人からはかかってこないけどさ」

 この地に来てから、新しい出会いはあっても旧友から連絡が来た事は無い。この電話も、茜さんの業務連絡と先ほどの電話ぐらいしかかかってこないのだ。

 現実というものに打ちひしがれている間に、晴海が言った。

「………何の電話?」

「レストランのキッチン周りの調理器具の話だよ。さ、早く飯喰って始めないと――――」

 バタン、という扉の開く音と共に、大声が響いた。

「コーチ! さ、練習しよ!」

 真理の喜々とした声―――今まさにキッチンに向かおうとしている孝治と晴海をそれぞれ見て、笑顔のまま首をかしげた。

 固まっていると、晴海が声をかけてきた。

「………いつの間にコーチになってたの?」

「知らん」

 とりあえず、溜め息だけが出てしまった。

 

 

「ねぇねぇ、コーチ。私を晴海ちゃんに紹介してよ」

「自分でしろ」

 朝ご飯のおかずを作っていると、彼女が腕の裾を引いてきた。何となくいい気もしなかったので無視していると、小さく唸りだす。

 孝治としては、同世代に何ら気遣いするほうが変だと思っていた。相手が天才だろうが、多分におかしい人間だとしても、あまり気にせず付き合えばいいだろうとも考えていた。

「大体、俺は年上だぞ? 何で同世代の同性同士の仲を取りつくろわなければいけないんだよ」

「いいじゃん。私にとっては雲の上の人なんだから〜〜〜〜〜」

 なんでも、彼女は運動出来ても頭が悪いらしい。まったく勉強の出来ない真理にとっては、勉強しなくても天才レベルである晴海は、文字通り雲の上の存在なのかもしれない。

 今日何度目かわからない溜め息を吐きながら、孝治は頷いた。

「分かったから、座って待ってろよ。今、飯作って戻るから」

 うん、と頷いて彼女は走っていく。

 どうやって晴海に紹介すれば良いのか悩みながらテーブルのほうへ戻ってみる。

「ねぇ、面白いの? それ」

 コクンと晴海が頷くと、彼女は身を乗り出す。それにおどろいたのか、晴海が顔を向けると、彼女は畳み掛けた。

「ねぇ、どんな話?」

 興味を持っている真理の質問に、晴海は戸惑った様子で、答えた。

「………ほんの少ししか魔法が使えない魔法遣いの話」

 晴海の言葉に、真理は感銘を受けたように表情を輝かせた。

「へぇ〜〜魔法使いが、魔法があまり使えないなんて、おかしな話」

「………魔法使いと魔法遣いは違うの」

「え? どうして?」

 そういう風に、彼女達は嬉しそうに話をする。何となく、見棄てられたような心地で朝食をとっていると、いきなり真理が話題を振ってきた。

「ねね、どう思う? 活発な女の子と静かな女の子、どっちが好き?」

「魔法遣いとか魔法使いの話は!?

 突然意味の分からない質問をしてきた真理―――彼女はケラケラ笑うと、首を振った。

「違うの。主人公の幼馴染が静かな子で、犬の女の人が活発な人だって」

「い、犬………? どんな内容だ?」

 その小説の中身が気になりながらも、孝治は思案した。

 そして――――――――‐‐‐‐‐‐‐

 

 

一、物静かな女の子かな? と答えた。

二、活発な女の子かな? と答えた。

三、女の子に興味が無い。と答えた。

 

 

「………って、何で選択肢があるんだッ!? つうより、三番目の選択肢は無いだろッ?! 常識で考えてッ!?」

 自分の脳内に突っ込みを入れつつ、「何を言い出しているんだろうか」という視線を向けている二人へ、孝治は首を振りつつ言った。

「俺としては、昔の大和撫子みたいな人が好きかな? ま、今はそんな暇も無いけど」

 性格としては、茜さんが一番近いかもしれない。

「へぇ。そうなんだ」

 感心も見えない彼女の応対に、あまり意味の無い質問だった気がしたが、既に孝治の朝食は終わっていた。食器を片付けて戻ってみると、あの二人は楽しそうに話をしている(真理が晴海の読書を笑顔で邪魔しているように見えるのだが)。

 とはいえ、これから社会進出するのだから、思い通りに行かない事も習わなければいけないだろう。

 仕事に戻ろうとした瞬間、真理が声をあげた。

「あ、コーチ! 終わったのなら指導してよ!」

「………ストレッチしていてくれ」

 痛む頭を押さえつつ、孝治は家を出て行った。

 

 

 

 ログハウスを見上げて、孝治の思考は止まっていた。

 広さ的には、六畳ほどのキッチンとカウンター、その向こう側に十二畳ほどの広い場所があった。フローリングの板張りだが、所々が腐っているので取り替えないといけない。

 外装は、はっきりって不気味だ。いい加減な作りなのか、皮付きのログハウスの所々に虫食いの穴が見える。この皮を剥いだとしても、あまり見栄えが良いわけではない。

(………板張りにするか? でも、なぁ、せっかくの外見だし………)

 ログハウスという外見を捨てるべきかどうかは、悩む。牧場といえばログハウス、少なくとも人を招き入れるのなら、少しは趣向を凝らさなければいけない。

「………どうするべきか」

 悩んでいる時だった。聞き覚えのある車の音が聞こえたのは。

 その車は、牧草地の横にある砂利道を通ると、ログハウスの隣に止められた。そして、声と共に彼が姿を現す。

「おう。ちぃっと見ない内に、ちったぁ、まともになってきたな」

「五十六じいさん」

 煙草をふかしながら歩み寄り、そう感想を漏らす。自分でもよく出来ていると思っていた孝治は、鼻高々に頷いた。

「もちろんッスよ。これでも、毎日休み無く働いてるんですから」

 感心したように頷き、辺りの設備を見渡す。小さく笑うと、呟いた。

「へぇ。確かに、よく働いてる―――――が」

 そこで言葉を区切り、牧草地を見て指差す。

「アイツは誰だ?」

 喜々とボールを蹴り回している真理――――孝治は、告げた。

「晴海ちゃんと同じ学校の子ですよ。春日 真理ちゃん。サッカーが好きなんですって」

「ほう。今頃蹴球が好きな女子っていうのも、珍しくないのかね。俺が子供の頃ぁ、お前ンちの婆様しかやってなかったしな」

 それは、初耳だった。曾祖父母の時代に女子サッカーがあるとは思えないが、五十六じいさんがやっているというのなら、本当だろう。

 噂は聞いていたが、本当に曾祖父母とはどんな存在だったのだろうか。日に日に興味がわいてくるのを感じた。

「ま、どっちにしろ頑張れ」

「あ、五十六じいさん、ちょっと相談があるんですけど………」

 五十六じいさんに、ログハウスをどうするか聞いてみた。外見としてはこのまま残しておきたいのだが、見栄えが悪くはないだろうか。板張りにするべきだろうか。

 五十六じいさんは、「何を言っているんだ、お前は?」という眼で見てきた。睨まれ、言葉を無くす孝治へ、五十六じいさんは口を開く。

「お前、何の為にうちの晴海を置いていると思ってんだ。それに、そこにもいんだろうが。ちったぁ頭を使え」

 そう言って、車に戻っていった。その後姿を眺め、しばらく胸中で悩んだ後―――ピンと来た。

「なるほど、な」

 さすがは大地主、と頷いていた。

 

 

「レストランの外見?」

 牧草地でサッカーボールを蹴って時間を潰していた真理は、孝治に話しかけられた時に満面の笑みを浮かべていたが、孝治の話が違う事だと気が付くと、落胆の色を見せていた。

 しかし、相談すると真剣に悩んでくれた。孝治の視線を見ていた真理は、レストランになる予定の建物を見上げ、口を開く。

「そうだね。あれだったら、あのままの方がいいと思うよ。私も好きだよ」

「そうか………」

 次の問題は、あの外見の虫食い穴をどうするか、だ。あまり建築の知識も無い孝治にとっては、どうしようもない。

 悩んでいると、真理が声をあげた。

「だったら、晴海ちゃんに聞けばいいよ。きっと、いい知恵を貸してくれるって」

 そこで、気が付く。五十六じいさんの言葉の意味―――――頷いた。

「なるほど、ね」

 

 

 真理と一緒に家に戻った孝治は、晴海を探した。

 ちょうど本を閉じ、家の窓から外を眺めていた晴海は、孝治の疑問を聞くと、少しだけ悩んだそぶりを見せ、解決してくれた。

「………木屑をつめてヤニで固める。その後、防虫剤や漆とかで何度も重ねると、いい」

 その後、手順や方法を事細かに説明してくれた。いつも無口な彼女が、これほど多くのものや早口で話す彼女をはじめて見て、茫然としてしまう。

「………これで、いい?」

 そういわれ、孝治は今言われた内容を反芻し、頷く。満面の笑顔で、いった。

「悪いわけない、っていうか、さすが、つうか、凄いなお前! ありがと!」

 ぽんぽんと彼女の頭を叩くと、ぐしゃぐしゃと撫でてやる。ぐわんぐわんと頭が揺れている晴海へ、いった。

「お前最高だよ! よし、ホームセンターに買物いかないとな! 二人とも、留守番よろしく!」

 慌ただしく財布と自転車の鍵をテーブルの上から拾い上げると、孝治は走り出した。慌ただしく駆け出していった孝治の背中を茫然と眺めていた真理は、気が付いたように顔をあげ、叫んだ。

「コーチ! 練習!」

「だったら走って付いて来い!」

 慌ただしく駆け出す真理。それらを傍観していた晴海は、自分のくしゃくしゃにされた髪を撫で下ろし、整え、席を立つ。いつものところから本を拾い上げ、椅子に座る。

 本を広げるが、いつもよりも集中できない。

 何かが、違う。顔がいつもと違わないといけない気がした。

 すこし、怒った顔をして見る―――違う。哀しんでみる―――これも、違う。

また、自分の髪を撫で―――微笑む。

 そして、気が付く。こういうときは、笑えば良いのだ、と。

 

 

 

その日の夕方―――――レストランの外観工事は終わった。

結局、サッカーの練習をしてもらえないと思ったのか、忙しいと分かってくれたのか、真理は家の修理の手伝いをしてくれた。本当に申し訳ない、と孝治は胸中で頭を下げていた。

そういう事(?)で、今日は鍋パーティーをすることになった。夏にやるの? と聞かれるかもしれないが、夏にやるからこそ面白いものもある。暑さも吹飛ぶキムチ鍋なら、誰もが喜ぶだろう。

晴海はいつもどおり本を読んでいるだけだったが、解決策を出してくれた功績を称え、参加を許す事にした。許すも何も、最初から参加させるつもりだったが。

「コーチ! 肉肉ッ♪」

 汗まみれで主役を求める真理に、孝治は苦笑する。テーブルの上、コンロの火に当てられグツグツと煮える赤い液体に、ネギや白菜が浮き沈みする。その中に肉を投入しながら、孝治は指摘した。

「おい、肉ばっかり食うな。野菜食え、野菜」

 煮えたものから片っ端に食べていた真理を戒めつつ、あまり箸の動かない晴海へ、少し心配になりながら聞いた。

「お前、嫌いなのか?」

 フルフル、と首を振る。じゃあ何故? と聞くよりも早く、彼女は説明して来た。

「………熱い」

 猫舌らしい。なるほど、と納得していると真理が口をもぐもぐさせてこちらを眺めている事に気が付いた。

孝治が訝しげに視線を向けると、彼女が口を開く。

「二人とも、仲が良いよね。どうして?」

 どうして? と聞かれ、孝治は晴海を見下ろす。こちらは気になっていないようで、見向きもせずに告げた。

「ここに、本があるから」

 なるほど、彼女らしい答えだ。微妙に納得したように頷いていると、真理は「ふぅん」と頷く。

「それよりコーチ! 明・日・こ・そ、練習見てくれるんでしょ?」

 暗に、「今日手伝ったんだから明日は練習に付き合え」と言っているようにしか思えない。その彼女の期待の視線を受けながら、孝治は頷いた。

「………ま、仕方ないだろ。仕事や買物も手伝ってくれたし。………ただし、午前だけだからな」

「うんうん! やった、楽しみ♪」

 そのまま、意識を鍋に戻す。彼女は猫舌でもなく、さらには辛いモノが大好きらしい。

 鍋というのは、実に深いものだ。

出汁から丁寧に作った鍋は、物凄く美味しい。が、少しでも気を抜くとあまり美味しくならないのだ。鍋こそ、料理人の腕を見せる最高の料理といっても過言ではない。

 孝治も、鍋を突付き始める。綺麗に―――――肉がない。

「真理! お前!」

「美味しい〜〜〜〜〜〜♪」

 山盛りの肉を自分の鉢に入れて逃げ出す真理―――それを駆けまわす孝治達を背に、晴海は程好い温度まで下がった肉を頬張り、呟く。

「………美味しい」

 夏は、まだまだ暑くなるらしい。

 

 

 

 

 

 

 次の日、学校での様子が変わった。

 自分では、理解できている。イジメが顕著なものではなく、陰湿なものになっていたのだ。

 朝、自分のロッカーを空けると、ネズミの死体が入っていた。

 なぜ、と思ったが、それは容易に想像できる。どうせ、祐樹と仲良くしているのが気に入らない、女子生徒のものだろう。

 しかし、その影はあっても、特定は出来なかった。どうやら、数人がかりで襲い掛かっても、返り討ちにあうのが眼に見えているからだろう。それはそのとおりで、私が負ける事は無い。

 教室に行くと、机の上に花瓶と、少し枯れた花がいけてあった。無言でそれを見つめ、その花瓶を持ち上げ、後ろ―――荷物を置くための棚の上に、移した。

 汚れきった自分の机。小さく溜め息を吐き、いつもどおりバケツを持って水場に向かう。

 水を入れていると、数人の女子生徒が近付いてきた。なんだ、と思うよりも早く。

 頭から、水をかけられた。ぽたぽたと流れ落ちる雫―――それを感じながら、相手を見る。

 クラスの中でも、いつも騒いでいる女子グループ。彼女は、手に持っている花瓶を置くと、口を開いた。

「あら、ごめんなさい。気が付かなかったわ」

 気が付かない? そうなのか。

「なら、いい」

 適当にあしらい、バケツを持ち上げる。服まで濡れたが、この暑い夏場―――すぐに乾くだろう。もしかしたら、今日牧場にいったら、孝治が心配するかもしれない。

 それも、面白そうだ。なぜか分からないが、孝治が心配そうにするのは、自分から見ても、面白い。

 そのまま彼女達の横を通り過ぎる――――瞬間、足が何かに突っかかった。

 前のめりに倒れそうになる―――ところで、体が止まった。

 突然差し出された手が、晴海の身体を支えていたのだ。その手の主は、大きな声で叫んだ。

「晴海ッち! 大丈夫!?

 抱えてくれたのは、真理のようだ。いつの間にか、あたりに人だかりが出来ている。

 バケツを地面に置き、立ち上がる。真理のほうを真っ直ぐ見て、頷いた。

「大丈夫。………ありがとう」

「いえいえ。………それより! そこの女子! 危ないじゃない!」

 真理の視線は、隣の女子―――足をかけた女子に、向けられた。明らかに分かる怒気――――しかし、晴海は彼女を押さえた。

「………放っておいたほうが良い。眼が悪いそうだから」

 そう言いながら、自分でも分かるほど冷たい眼を向ける。やや尻込みする彼女を見て、小さく呟いた。

「でも、まだやるというなら………相手になる」

 ふん、と鼻を鳴らすと、彼女たちグループは去っていった。心配そうに覗き込んでくる真理を適当に誤魔化し、バケツを持ったまま、教室に戻った。

 机が倒され、置いておいた鞄に踏まれた後があった。小さく嘆息し、再度、思う。

 なぜ、こんな無駄なことをするのだろうか。

 答えは、私に分かることではないのかもしれない。

 私は、人間じゃないのだから。

 ―――――結局、夏休みまで何も起こらなかった。

 

 

 

 

 

 


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