七月 九日。

 いつもの学校登校――――今日は、何の臭いもしない、いつもよりも綺麗な服で、いつもよりも軽い感覚で登校路を歩いていた。

 自分でも、おかしいと思う。洗っただけで軽くなるわけが無いし、現に重さは変わらない。それでも、間違いなく軽く思える。

 よく思うのだが、他の人はよく笑う。たいして中身も無く、面白くない内容で笑うのだから、理解できない。

 朝は、いつも早くつくように心がけている。教室に行くと、机が汚い字で汚れているので、綺麗にするのだ。

 ガラッと扉を開ける。人も少ない、朝早い教室――――自分の席のところに、一人の影があった。たいして気にせず近付くと、その影が自分の机の上で手を動かしているのが分かる。

 振り返った顔は、見覚えがあった。見覚えがあるが、名前は思い出せない。

「あ、お、おはよう。晴海さん」

 しどろもどろで声をかけてくる彼―――茶色の髪に、活発的な表情と細い眉を持つ、俗世間で「格好良い」男子生徒。

「おはよう」

 小さな声で返しながら、彼の様子を窺う。

 彼の足元には、バケツ。そして、彼の手には雑巾が握られていた。訝しげに机の上を見ると、墨で書かれた落書きが、水で伸びているところだ。

 彼は、雑巾と私の間に何度か視線を交わせると、慌てて両手を振った。

「い、いや、酷いことするなっておもって、さ。それに、俺も、学級委員長だから、さ。ああ、すぐ終わるよ」

 思い出した。学年の女子生徒の中からよく出る男子生徒の名前――――確か、瀬戸 祐樹だ。

 私は、少しだけ眉をしかめた。何故、彼は自分の机を掃除してくれているのだろうか。

「あ、もうすぐで終わるから。ちょっと待ってて」

 言葉を返すよりも早く、彼は机の上を綺麗にして、バケツを手に持つと去っていった。教室中から嘲笑う声や訝しげな声、そして彼をからかう声が響く。

「よかったな、【孤独姫】。騎士様が出てきたぜ?」

 そう言って近付いてきたのは、いつもちょっかいを出してくる三人組。彼らを見て、自分で分かるほど呆れた溜め息をつく。

 視線を外す。そのまま、席に座った。それが気に入らないのだろう、叫ぶ。

「学校くんなよ! テメェが居るだけで、クラスが嫌なんだよ!」

 私は、静かに相手を見上げる。小さく、口を開く。

「どうして?」

「気持ち悪いんだよ! 親父だって言ってたぜ! 『忌み子』だってな!」

 きっと、この相手は『忌み子』の意味も知らない。さらにいえば、学校に来る意味すら取り違えているのだ。さらにいえば、私の質問の意味を取り違えている。

 冷ややかな視線のまま、彼らを見上げ―――再度口を開いた。

「どうして、私が学校に来るかどうかを、あなたが決められるの?」

 三人組が、同時に口籠もる。ちょうどその時、祐樹が教室に戻ってきた。

教室に戻ってきた彼は、三人組をみるや否や、開口一番、叫んだ。

「くだらない事するなよ! 自分がやられていやなことをして喜ぶ最低な奴等!」

 シン、と静まり返る教室。彼は、続けて言った。

「彼女は、確かに特別かもしれない。でも、お前らのほうが最悪だろうが!」

 言い寄りながら、告げる。

「彼女がなにをした? お前らみたいに汚い言葉で、誰かを傷つけたか? 数に物を言わせて、相手を追い込んだか!? いい加減にしろよ! 必要ないのは、お前らのほうだろうが!」

「んだと、この野郎!」

 突っかかろうと手を伸ばす三人組の一人――――ガタッと、音がした。

 自然に、手が伸びていた。彼が伸ばした手を掴むと、そのまま引き寄せ、体勢を崩した後に身体を入れ替え、さらに引いた。

 グルン、と体が一回転し―――床に、叩きつけられた。くぐもった声を出し、衝撃に言葉をなくしている彼へ、小さな声で告げる。

「………暴力で解決するというのなら、相手になる。………いい加減、読書の邪魔をしないで」

 人を投げ飛ばす事など、そう難しい事ではない。力の向きや重心、さらには行動を予測すれば、少ない力でも投げ飛ばせる。確か、合気道と言った武術も、その理論だ。

 投げられ、放心している彼等――――その時、先生が慌てて教室に入ってきた。

 三人組は、私を虐めていたらしい。どこのどこがイジメ、というものなのか分からないが、そのため、一ヶ月の休学になったそうだ。

 祐樹は、クラスの人気者になった。もともと三人組は他の人を虐めて喜んでいたらしい。

 

 それらは、私にとってどうでもいいことだ。

 

 だから、変わらず本を読む。時々祐樹が近くに来て、「何の本を読んでいるの?」とか、「面白い?」とか聞いてくる。その時、私は孝治に答えるように返していた。

 たった、それだけの事。祐樹が私に話しかけてくるぐらいのことだ。

 

 何も変わっていない。

 

 

 

 

 さて、ちょっとばっかり、ダイジェストでお送りしよう。

 

 七月 九日。

 今日は、草刈をやった。大変だった。晴海は来なかったが、茜さんがお菓子を持って様子を見に来てくれた。美味しかった。

 

 

 七月 十日。

 草刈が終わらない。いい加減、飽きはじめていた頃―――五十六じいさんが芝刈り機を持ってきてくれた。小さな車の先にチェーンソーの刃がついているようなもので、楽でいいが、持っているなら最初から出しやがれ。

 

 

 そして、時は流れ――――七月 二十五日。

 

 瞬く間に、十七日が過ぎた。

まるで壁のように在った草木も、文明の利器と五日という長い月日で刈り終え、近くの竹林から切り出して組み立てた物干し竿に吊らされている。

 開拓(というのは少し、大げさか)された敷地には、十分な設備があった。 

 干し草を貯蔵しておく貯蔵庫に、キング式の牛舎、鶏小屋と羊小屋、そして物置と巨大な謎の建物。五十六じいさんの話だと、曾祖母さんがやっていた習字の教室らしい。

これもログハウスなので、レストランはこれを改築する事にした。

 そしてすでに、牛舎以外は片づけが終わっていた。壊れている場所は裏山から木を切り出して、自分で材木を用意する。

というより、物置に木を裁断する機械があり、自由に板を作ることが出来るのだ。

 なぜ牧場にそんなものがあるのか――――よくよく考えれば、曾祖父さんと曾祖母さんの名前すら、孝治は知らなかった。五十六じいさんに聞いても当時は子供だったらしく、覚えていないそうだ。

 ただ、あった事は無いのに顔は分かる。特徴を五十六じいさんにいうと、合っているというのだ。ただ、それは若いときの特徴だという。

確かに、若い人間だったが。

 話はずれたが、そんなこんなでようやく牧場の全貌が見えた。

 最初は、荒れ放題の牛舎を片付ける事にした。壁は煉瓦でしっかりとした作りなので、問題は無い。

古臭い機具は家の奥にしまいこみ、水で埃を洗い流す。

そして、視線を外が見える窓に映した。

 

 そこには、晴海が居た。いつもどおり本を読みながら、牛舎の煉瓦の壁に座っている。

 

 なんでも、もうすぐで夏休みらしく、彼女の学校は早く終わるそうだ。。ほとんど毎日本を読みに来る彼女は、既に慣れ夕食も一緒に取っている。こちらの友人が少ない孝治としては、嬉しい話だ(どこと無く、保護者の感じは否めないが)。

 夏休みに入ったら(といっても、来週からだが)朝から本を読んでいるだろう。彼女らしく、孝治には何もいえない。邪魔はしないし気にかけなくて良いので、楽だ。

 牛舎の中を洗い流し、外に出たときだった。

 

 人が、いた。

 

短く刈りそろえた牧草の上で、サッカーボールを蹴り上げている人影。

 焼けた赤髪をポニーテールにし、爛々と輝く眼でボールを追いかける。特徴的な鼻の上のバンソウコウに、整った顔立ち。広い牧草地を駆け回る彼女は、ずっとボールを蹴りつづけていた。身長としては、孝治の胸の辺りに頭が来るほどだろうか。

 ぼうっと立ち尽くしている孝治に気がつくと、「あ」という小さな声とともに、ボールが地面に落ちる。ずっと続いていたのだから、凄い。

 それに気がつき、慌てて足を伸ばす。つま先に当たり、孝治のほうに転がってきた。

「あ、あちゃ〜〜〜〜〜〜〜」

 バツの悪い顔で近付いてくる。勢いよく頭を提げると、告げた。

「ごめんなさい! 勝手に入って、サッカーして」

 足元に転がってきたボールを見て、少しだけ微笑む。肩に担いでいた板を下ろすと、転がっているボールをまたぎ、残っていた左足で前の足の後ろと挟み、蹴り上げた。

後ろからふわりと上がったボールを前で太股を使ってリフティング。内側、外側、後ろで踵を使って蹴り上げると、クルリと身体を回し、彼女へ山なりの軌道でけり返す。

 放心したように眼を見開いていた彼女は、慌てて胸で受ける。それを見て、少しだけ笑いながら告げた。

「いや、別に構わないさ。こう見えても、小中高とやっていたから、好きだしね」

 実を言うと、結構な名門校で、絵以外ではかなりの腕前までいった。ただ、こちらは怪我の影響で、既に諦めた夢でもあるが。

「凄ぉい! 始めて見たよ、あんな自然なテクニック!」

 そう言いながら、眼を輝かせて近付いてくる。尊敬の眼差しを向ける彼女へ、孝治は苦笑しながら首をふった。

「小手先だけさ。現に、レギュラーになった事も無い」

 これは、嘘だ。なんとなく、目の前の存在には、言えなかった。

 とはいえ、先ほどの彼女のテクニックを見る限り、彼女は異常なまでに上手い。彼女が着ている服を見て、口を開いた。

「もしかして君、銀楼学園の子? あそこに女子サッカーなんてあるんだ」

「ううん、無いよ」

 事も無げに否定する彼女の言葉の意味が分からず、文字通り眼が点になった。

 彼女は気恥ずかしそうに頬をかくと、説明した。

「だから、男子サッカーに入れてもらってるんだ。これでも、そこら辺の男子には負けないんだから」

 ガッツポーズをする彼女―――なるほど、あのテクニック(しかも中学生)なら、確かに負けないだろう。

「という事は、部活の帰りかい?」

 今まで通り気さくに答えていた彼女だが、ハッとすると、たどたどしい敬語で口を開いた。

「そうなの………です。部活終わって、家に帰る途中なんだけど………最近、この辺が綺麗に刈そろえてられてきたし、芝に近いから、思わず………」

 しゅん、と小さくなる彼女。怒られるのではないか、と心配なのだろう。

「だから、別に構わないさ。あまり踏み荒らされたら問題かもしれないけど、もう収穫は終わっているし、見ての通り広いから。自由に使いなよ」

 そう言って、置いておいた板を肩に担ぐ。嬉しそうに顔を輝かせる彼女へ、孝治は言った。

「俺は、森繁 孝治。こう見えても二〇。君は?」

「私? 私は、春日 真理です。ありがとうございます!」

 頭を提げる彼女―――真理へ、苦笑しながら首を振る。

「敬語もいいし、自由に使いな。近々、レストランを開くつもりだから、その時はお客としてきてくれれば」

「ありがとう! 孝治君―――じゃなくて、孝治さん!」

 そう言って、彼女はまたサッカーボールをけりだした。遠く見える場所で大きく手を振り、声が聞こえてきた。

「時間が空いたら、相手をしてね〜〜〜〜!」

 手を振りながら、物置のほうに向かう。その途中で、呟いていた。

「ここらへんの子供は、人見知りをしなくていいな」

 そして、キラキラと輝くような笑顔を思い出し、太陽みたいな子だな、と小さな声で呟いていた。

 切り揃えた材木を引っ張り出し、牛舎に戻る。まず、穴の開いている場所を裁断し、その長さに合わせて材木を切ってはめた後、柱に釘で打ちつける。口に釘を銜え、黙々と作業をしていた。

「………器用だね」

「うわッ!?

 いきなり後ろから声をかけられ、口から釘を吐きつつ立ち上がる。真後ろに立っていた晴海が、いつもどおりの三白眼で孝治を見ていた。そのまま牧草地のほうを向くと、小さな声で呟く。

「彼女、誰?」

 どうやら、真理が気になるらしい。誰、という言葉に少しだけ小首を傾げた。

「誰って、お前の学校の女子だ。なんか、サッカーが得意で、男子部に入っているって言っていたけど、有名じゃないのか?」

「………ああ、春日 真理」

 どうやら、名前は知っているらしい。少しだけ興味が出てきていたので、聞いてみる事にした。

「なんか、噂でもあるのか?」

 しかし、晴海は興味をなくしたようだ。それでも少しだけ言葉を残していった。

「………男子にモテモテ」

 そう言って、彼女は孝治の家へ勝手に入っていく。

 なるほど、と少しだけ納得してしまう。誰とでも仲良くなれるあの活発さと、まるで太陽のような笑顔―――同世代、思春期を迎えた男子でもグッと来るものがあるのだろう。それに、かわいいということもある。

 それにしても、と考えた。あの晴海が誰かに興味を持つものなのだろうか。

(もしかして、俺が女の子と話しているのを見て嫉妬――――するわけ無いか)

「あれ、東野さんだよね。仲良いの?」

「うわッ!?

 突然、声が聞こえ、飛び上がる。慌てて振り返ると、今度は真理が立っていた。少しだけ好奇心の強い眼差しで笑いながら、口を開く。

「ねぇ、何で東野さんが居るの?」

 ズイッと顔を近づけてくる彼女へ、孝治は二度にわたる不意打ちで慌ただしく脈打つ心臓を押さえつつ、言った。

「俺の知り合いの五十六じいさんの養女だからな。知ってるだろ?」

「ああ、五十六さんの。そういえば、そうだったね」

 五十六という名前は、この辺りではかなり有名らしい。納得したのか、真理は少しだけ距離を取ってくれる。はちきれんばかりに胸打つ心臓(恋ではなく、単純に驚いた)をなだめつつ、孝治は少しだけ考えた。

(………晴海ちゃんの事を知るのには、ちょうどいいかもな。この間の一件も在るし)

率直に聞いた。

「………なぁ。晴海――ちゃんって、学校でどんな子なんだ? あの子、学校の事は話さないから、わかんなくて、さ」

 孝治の言葉に、真理が「え?」と言葉を漏らした。眼に見えるほど困惑した表情で頷きつつ、小さな声で呟く。

「そう、だね………。えっと、クラスが違うから分からないけど………」

 そう前置きをし、真理は口を開いた。

「えっと、学校一の秀才で、ね。もう、大学から推薦が来ているんだけど………。あ、悪口いうわけじゃないんだ。あ、あまり知らないけど、あ、あの、風の噂で――――――」

「はよいえや―――ああ、悪い、早くしてくれ」

 彼女が言いよどんでいる途中で、思わずいつものノリで突っ込んでしまう。

落ちていた釘を拾い、トンカチを拾い上げながら、彼女の言葉を待つ。彼女は、少しだけ頷きつつ喉を鳴らすと、二十秒ほど間を置いてから、告げた。

「【孤独姫】って呼ばれてて、誰も話さないし、誰も近付かない、の」

 言葉を聞いて、十秒―――言葉の意味を把握するのに、二十秒―――オマケに二秒ほど考えてから、口を開いた。

「は?」

 孝治が彼女の態度から感じるものよりも、想像していたものよりも酷い学校生活が、そこにあった。

「でも、この間いじめ、みたいなので、原因だった三人組が休学で、誰もが気味悪がって、彼女には近付かないらしいの。いつも窓際の席で本を読んでいるし、学校の勉強も真面目に受けていないし。でも、テストは満点だから、先生は何も言わない。………それに、彼女も人を避けている節があるみたいだし………」

「………なるほど、な」

(非常に納得できる内容だ)

 自身、彼女の対応能力に少しだけ疑問を持っていた。

対応、というよりは応対―――対人関係だろうか、人と接する能力に欠けている。が、時折会話の間で見せる彼女の印象では、べらぼうに頭はいい。

 

 そして、ようやく五十六じいさんの意図がつかめた。

 

(………なるほど、ね。家の親戚に黙っていたい気持ちは分からんでもないが………)

 

 親戚に見つかれば、あの縁者達はこぞって晴海に近付き、期待というプレッシャーをかけるだけかけて、成功したら「当然」といい、失敗したら「やっぱりね」と無責任な事をいうに違いない。少なくとも、画家を目指していた時はそうだった。

「あ、でも、この間学級委員長の祐樹君が、彼女と話をしているのを見たよ? 結構、仲が良いみたい」

「へぇ。意外だな。アイツが男子と仲がいいなんて」

 真理の言葉は、意外そのものだった。あの晴海が男子生徒と仲がよいなど、地球が滅んでもありえないことだと思っていたからだ。

 しかし、それだけで良いわけではない。頭をかきながら、真理に向き直る。

「ああ、まぁ、良く判った。俺にどうこう出来る事じゃないとは思うが、俺の少ない友人だからな。ありがとう、真理ちゃん」

「ううん。良いんだ。私も、今度話しかけるからね」

 そう言って、彼女はボールを蹴って牧草地に駆け出す。クルリと振り返ると、大きな声で叫んだ。

「これ、返して欲しければ私からボールをとって!」

 彼女がボールを思いっきり上に蹴り上げ、宙に浮かぶ。怪訝そうに眉を潜める孝治に向けられて、振られたもの―――トンカチだ。腰につけていたのに、いつの間にか取られていたのだ。

それを見て、小さく苦笑し―――――孝治は真理に向き直り、叫んだ。

「百年早いわ! 小童が!」

 

 

 結局。

 

 

 六年というブランクは重いもので、テクニックは負けていなくても体力は負けてしまっていた。とはいえ、プライドというモノがあり、中学生に馬鹿にされるわけにいかず、最後は全ての力を使ってボールを奪い返す。

トンカチを取り返すと、彼女は時計を見て声をあげた。なんでも、これからクラブの練習があるらしい。

「じゃぁ、また来るからね♪」

 満面の笑顔で手を振る真理を、力ない手で見送る。まるで嵐のように駆け抜けた女の子は、女の子らしかぬスピードであっという間に点になった。

 牧草に、座り込む。その感触を手で噛み締めながら、小さく笑う。

(久々に、スポーツらしいスポーツをした、な。悪くは、ない、か)

 そのまま、身体を持ち上げ――――作業に戻った。

 

 

 

 すっかり日も落ちた頃、ようやく牛舎の修繕が終わった。肝心の牛をどうするかは決めていないものの、明日からでも使えるだろう。

 晴海は、ずっと本を読んでいる。ここまで毎日同じ格好だと、置物と間違えかねない。

 孝治は、台所で料理を作っていた。暑いが、今日は坦々麺でも作ろうかと思いたち、買ってきた材料の下ごしらえをしている時だ。

 ふと、気になったことがあった。キッチンから見向きもせず、大きな声で叫ぶ。

「そういえば、五十六じいさんには言ってあるんだろ? うちに居るの」

 聞いて、一瞬で後悔する。このまま彼女に聞いて、解決する事など一つも無いのだ。

「そう」

 これだ。彼女の返す言葉など、「そう」しかないうえ、肯定の場合は相手が見ていようが見ていまいが頷き、否定の場合は何も言わないという徹底振りだ。ちなみに彼女の「そう」は、本に集中していて、適当に返す言葉である。

 キッチンから出て、彼女を見てやる。彼女がページをめくる時、孝治が見ていることに気がついて顔をあげた時、もう一度言った。

「五十六じいさんには、ここにいる事を言っているんだろ?」

 もちろん知っているはずだろう――――ちょっとした確認のつもりだった。

「………知らないと思う」

「そうか。………て、え?」

 彼女の言葉は、予想外だった。怪訝そうに眉をしかめる孝治へ、彼女は事も無げに言った。

「五十六さんとは、別の所に住んでいるから………」

「………ほぉう。そりゃ、ご立派なこって」

 何となく、全て合点がいった。この間の刈払機事件の時も、どんなに夜遅くなっても怒られない意味。

つまり、一人暮らしをしているらしい。この間作ってきていた弁当も、彼女の腕前がたいしたものだと伺える。

 とはいえ、それは他人の家の教育方針――――口を出すつもりも無い。とはいえ、少しだけしんみりしてしまったのは否めず、孝治は頭をかきながら、話題を変えるように告げた。

「晩御飯、食べていくんだろ?」

 コクン、と頷く彼女を見て、苦笑した。

「そういえば、お前、学校で【孤独姫】なんていわれているらしいな」

 料理を拵え、食事が始まった頃―――――――我ながら触れてはいけない部分だという事を自覚しながらも、触れてみる。

怒ったり切れたり、恥ずかしがったり――――何となく人間っぽい表情を期待していたのだ。

しかし、晴海は全く表情を変えず、頷く。彼女の態度に少しだけ小首を傾げながら、口を開いた。

「でも、寂しくないか? 他の人と話もしないなんて」

「………どうして?」

 ボソリと聞こえた、疑問の声。三白眼で見上げる彼女は、少しだけ怪訝そうにも見える。

 その彼女の態度に、孝治も言葉を詰まらせた。

「え? ど、どうしてって、それは………。ほ、ほら、友達が居ないと、学校生活って詰まんなくないか?」

「………別に」

 本当に気にした様子もなく言い切る晴海。孝治が作った坦々麺を、文字通り淡々と食っている。あまりにも人間性を感じない彼女の態度に、忘れかけていた違和感を覚えた。

 ついで、聞く。

「お前、何して遊ぶの?」

「………学校は勉強する所」

「高尚な答えだ」

か細い声で返した。

ヤバイ、と直感する。頭の額を抑えながら、彼女の学校生活があまりにもつまらないものではないのか、と心配してしまった。

「休み時間、話とかしないのか?」

「………本を読む」

納得。しかし、あまりにも納得できる内容だったが――――それで良い訳が無い。

「………お前、友達いないのか」

「居ない」

 即答。しかも、全く感情の籠もっていない声。まるで、コンピュータの複合音声で、決められた言葉を続けるような感じだ。

 しかし、彼女は小さく顔をあげると、付け足した。

「………茜さんと、孝治がいた」

「とってつけたような言葉………ありがと」

 何となく悪くないな、と思っている自分が、そこに居た。そして、少しだけ自覚する。

 自分もこの【孤独姫】の世界を見ているのだ、と。

 そこで、思い出す。

「あれ? なんでも、祐樹とかいう学級委員長と仲がいいんじゃなかったか? 真理ちゃんからはそう聞いたんだが………」

 孝治の言葉に、彼女は眉を潜めた。しばらく悩んだ後、小さく頷き――――事も無げに言った。

「読書の邪魔をするから嫌い」

「………そうか。可哀想に」

 彼女の世界は、本を中心に動いているらしい。

 ふと、彼女を見ると手が止まっていることに気がついた。ついさっき、初めて坦々麺を口にしたところだ。

「どうした? まずいか?」

 孝治の言葉に頭を左右に振り―――舌を出しながら呟いた。

「辛い」

 思わず、笑ってしまった。

 

 

 

 

 晴海を見送った後、なんとなく、画材道具を引っ張り出してきた。入り口の所にある小さなスペースに、拾ってきた棚に入れてある。

 絵の具で汚れたパレット。子供の頃から好きなのは、水彩画だ。

 淡いタッチで描かれる、透明感のある絵――――それを目指して描いてきたが、どうしても上手く行かなくなった。趣味が仕事になるということが、重かったのかもしれない。

 しかし、今度はまた趣味に戻った。今は忙しくて描けないが、いつかはゆっくりと書いてみたい。

 描き掛けの絵――――山と森に囲まれた、特に特徴のあるわけでも無い風景画。ずっと昔に見たことがある風景を思い出しながら描いていたものだ。

 それを、奥にしまいこむ。とうに諦めた夢―――――だからこそ、か。

 諦めきれない自分が居るのは。

 

 

 

 

 

 


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