九月 十五日。

 学校から連絡があったのは、朝だった。お母さんがなにやら話をしていると、私をチラッと見ると、頷くように見て、電話を切った。

『本日、柳市は快晴で、無風でしょう。洗濯物が―――』

 リビングに響くのは、朝のニュースキャスターの、声。朝の天気予報に何となく耳を傾けながら、お母さんのほうを見ていた。

 お母さんは、しばらく悩んだそぶりを見せると、言った。

「しばらく、孝治さんのところに厄介になりなさい」

 優しくも有無を言わせないその言葉に、私は頷くことしかできなかった。

 慌てて学校の用意を掴んだ私を引き連れて、扉を開けた先には。

「「「「―――――!!!!」」」」

 耳鳴りのような人の轟音と、焼けるような真っ白な色が、包み込んでいた。

 

 

 

 

『そりゃ、大騒ぎだな』

「ああ」

 『銀狼学園』前、自分の車の中からその様子を見ていた誠は、電話先の孝治へ、同意の言葉を返した。

 市内では屈指の広さを誇る『銀楼学園』の入り口には、多くの人間の姿が在った。

左右でゆうに十メートルは離れている校門の前には、敷き詰められるように人の山が合った。しかし、その多くが学校関係者ではない事は、一目見て分かる。

 ワイドショーの取材屋や、新聞記者。野次馬に一目見てファンになった人間などで、垣根が出来ているのだ。

 登校してくる生徒一人一人が取材を受け、苦笑しながら門の中を潜っていく。僅か五メートルしかないその道を、五分かけて歩かなければ突破できないほど、人が集中していたからだ。

 その様子を離れた場所から見ていた誠は、言葉を続けた。

「マスコミの狙いは、真理だろうな。晴海は誰よりも早くはいっているから大丈夫だと思うが、真理は行かせない方が良いだろうな」

 それにしても、と誠は思う。いくら全国放送、そしてレナードの言葉とはいえ、ここは片田舎―――いくらなんでも早すぎる。

 電話を折りたたみ、ポケットに入れる。慌しい取材陣を遠めに見ながら、結論に至った。

(元々、こういう狙いだったか)

 孝治に会いに行くというのはただの建前で、本来の目的は孝治の引き抜き。

話の流れで、「サッカーでもしよう」と孝治を誘い出し、マスコミが隠れている中でサッカーをさせる。そして、その映像を持って大々的に告知し、無理やり引っ張るつもりだったのだろう。

昔から、そうだ。孝治に近付く奴は、基本的には良い人間なのだが、行き着く奴は行き着くのだ。

(―――俺も、か)

 その内の一人だった誠は、自嘲した。今はこうやって仲良くやっているが、腹に一物を持っていた頃は、本当に辛かった。

(それでも、孝治は許してくれそうだが………つうか、許されたな)

 ふと、空を見上げる。夏休みも終わったものの、まだ鳴り止まない蝉時雨に、まだまだ高い青空も。

 

 何故か、重い色に見えた。

 

 

 

 

「――――そうか」

 レストランで誠の話を聞いていた孝治は、適当なところで切り上げてくることを告げると、電話を切った。レストランのカウンターボックスの中に縮こまっている影を見ると、カウンターに用意していたお盆を手に持つと、苦笑しながら歩を進めた。

「どっちにしろ、お母さんの予想は正しかったわけだ。ま、そのうち此処も突き止められるとは思うけど、ゆっくりしてけ」

「う、うん」

 影は、真理その人だ。しかし、いつも活発な彼女とは違い、少しだけ脅えている様子を見せていた。

 否、脅えているのだ。がくがくと震えながらも、孝治が差し出したコップを受け取ると、力ない笑顔を浮かべた。

 朝、学校の連絡を受けた真理のお母さんは、すぐに真理を森繁牧場に送り出したのだが、すでに家を突き止めたマスコミによって、真理は囲まれてしまったのだ。

 真理のお母さんが機転を利かせて逃がしたのだが、真理にとっては十分な恐怖になったらしい。

(そりゃ、そうか)

 今まで日の目が当たっていなかった自分が、急に注目される。しかも、其れが安全だと思っていた自宅にまで押し込まれているのだ。恐怖は、一入だろう。

 弱々しい真理が家に駆け込んできた瞬間、孝治も目の前の少女が本当に真理なのか、信じられなかったぐらいだった。

汗だくで、それでも震えている彼女をレストランに入れると、状況確認と言うことで誠に動いてもらったのだ。

 テレビでは、どこのチャンネルを開いても真理の特番が組まれていた。何処から持ってきたのか、過去の試合の映像や練習に精を出す真理の姿などが、映っていた。

 あのワイドショーの特番だけでは、流石に此処まで大事にはならなかった。問題は、その後起きたのである。

 レナードがかつて勤めていたスペインリーグ最高峰のチームからの、正式なオファー。次いで、高校のサッカーを纏めている教会からの、強化合宿参加要請、正式な試合にも特別に参加できるという特例措置などが、立て続けに認可されたのだ。

 その全てを真理のお母さんは断ったのだが、周りが黙っていなかった。

 異常なまでの、マスコミの騒動。誠の話によれば、誰かが先導している可能性もあるとのことだ。

それだけレナードの手腕が確かなのと、注目度が高いのだろう。その所為で真理の生活が崩れているのを考えると、正しいこととは思えないが。

無論、真理自身の魅力も在るのだろうが――――

「………」

 手に持ったコップを見つめたまま、震えている真理。その姿を見るだけで、気分が悪くなってきた。

 手に持っていたコップを、下ろす。毛布から覗く頭に、孝治が手を載せた。

「ほら、真理。何時までもふさぎ込むなって」

「こ、コーチ?」

 そのまま、優しく髪を撫で付けてやる。汗で濡れている髪の毛に触れながら、ボックス席に座ってやった。真理はボックス席の机の下なので、ようやく顔を見ることが出来た。

「何に悩んでいるんだか分からないが、あんまり悩むな。こういう事は大人に任せて、お前は安心していろ」

 そういい、いままで優しく撫で付けていた髪の毛を、思いっきり押し付けた。若干の驚きと、慌てた様子を見せる真理に笑顔を向けながら、孝治は立ち上がった。

「さて、今日は一緒にパンでも焼くか。面白いぞ?」

「え? ――――うんッ!」

 ようやく、真理の太陽のような笑顔が、咲いた。その笑顔を見て、孝治も微笑み返すのだった。

 

 

 

 

 三白眼だ、と祐樹は思った。割と、本気で危険な雰囲気を醸し出す彼女は、いつもよりもはっきりとした三白眼で、森繁牧場の方向を見ていた。

 危険な雰囲気を出しているのは、晴海だった。その雰囲気はクラス中に蔓延し、慣れている祐樹以外、彼女に近づけないぐらいだった。

 理由は、勿論ある。今の話題の人となった、真理のことだ。

 朝、登校したときからマスコミ関係の人間に囲まれ、やっとのこと昇降口にたどり着いたと思ったら、今度はクラスメイト、学校の関係者の質問攻めだ。

 晴海が切れるのは、時間の問題だった。

 切れた結果が、この威圧感である。クラスメイトどころか先生まで脅えるぐらい、いまの晴海は恐かった。

「………」

 真理が森繁牧場にいる事は、いつもの面子は知っている。なんだかんだ言って仲がいい晴海は、心配なのだろうか、落ち着かない。

 唯一、箕郷だけは姿が見えなかった。最近は真面目に出ていたとはいえ、もとは自由奔放な彼女のことだから、牧場にでも向かっているのだろう。

 其れゆえ、祐樹は晴海の近くにいた。彼がいないと、晴海を止められないからだ。

「………」

 いつもなら、夢に見ても敵わなかった、二人きりと言うこの状況。

 祐樹は、切に思う。

(………胃が痛い)

 流れてくる涙は、歓喜か、絶望か。

 祐樹には、分からなかった。

 

 

制服の下にジャージを履いた箕郷は、ポリポリと頬を搔いた。

「………うっぜ」

 今ようやく、正門を抜けだした箕郷は、昼前ぐらいだというのにいまだに居る取材陣へ、唾棄するように呟き、退かせる。腫れ物でも触るような態度の取材陣を無視し、箕郷は学校の外に出た。

「いよ」

 声を掛けられ、箕郷は不機嫌そうな表情を隠さず、振り返った。

「んあ? って、誠さんか」

 箕郷に声をかけたのは、誠だった。誠は、いつも乗っている白いワゴン車を背中に、腕を組んでこちらを見ている箕郷へ、誠は親指を突き出し、背中のほうへ向けながら、告げた。

「乗って行くか? 送るぞ?」

「………あざっす」

 軽く頭を下げ、箕郷は笑った。

 運転席に誠が乗り、助手席に箕郷が乗って、車は走り出す。市街地から郊外に向かう道路に乗ったとき、誠は口を開いた。

「真理は今、牧場に来ている。安心しろ。誰も、近寄れないさ」

「………そっか。はぁあ~、安心した」

 誠の言葉に、箕郷が眼に見えて、安堵の表情を浮かべる。仲間思いだな、と誠は思いながら、運転に集中しながら、言葉を紡ぐ。

「ま、知ってのとおり、レナードが絡んでいる。真理自体の魅力もあるんだろうが、いくらなんでも早すぎるし、な」

 誠の言葉に、箕郷は不機嫌そうな表情を隠さず、舌打ちを鳴り響かせながら、力強く告げた。

「見た感じろくでもねぇ相手だって思ったけど、まさかッ! あん時ぶん殴って追い出しとけば良かったぜ!」

 息巻く箕郷に、誠はため息を吐きながら、こたえた。

「やめとけ。あれだって、此処までの反応とは思ってもいなかったんじゃないか?」

 誠の言葉に、箕郷も唸りながらも、頭をかく。むしゃくしゃしているのも分かるのだが、今の状況で自分ができることがない事が、余計に嫌なのだろう。

(意外に仲間思いだよ、な)

 そんなことを考えながら誠は、これからどうするか、と考えながら、牧場に向かって車のアクセルを踏み込む。

「………結局、さ。真理はどうなるんだ?」

 箕郷の言葉に、誠は少しだけ考えて、答えた。

「まぁ、何事にも、本人の意思次第だ。個人がやる気がなければ、無理やり連れ出すことも出来ないさ」

「だから、こうなったんだろ?」

 箕郷の言葉に、今度は誠が、内心驚いた。見た目はこうだが、なかなかに頭が回るらしく、その眼差しも真剣に誠を捉えている。

 誠は、箕郷に一瞥した後、淡々とした口調で、答えた。

「それでも、決めるのは真理だろう。本人が嫌だといえば、あるいは―――いや」

 誠の言葉が途切れた事に、箕郷が眉を潜める。言葉を続けられなかった誠は、ややあって首を左右に振ると、言葉を紡ぐ。

「なんでもない」

「………なんじゃそりゃ」

 やれやれ、と言った様子で、特に追求することもなく背もたれに寄りかかる箕郷。其れを横目で見ながら、誠は胸中で呟いた。

(………『神隠し』の大元で、その意にそぐわないことが起きるとすれば―――厄介だな)

 不意に、胸中に生まれる不安。其れは、今はなりを潜めている、とある事象に関する危惧。

 そして、牧場に近付いた時、誠はその光景に、一瞬我を忘れた。

 在るのは、牧場のログハウスとレストランから隠れるように駐車されている、車。

 そして、その牧場の草原に立つ、二人の影と、一つの倒れた人影が、慌てた様子で起き上がり、駆け出して行く後姿だけだった。

 

 

 

 

 なんだかんだ言って、孝治は真理のことを心配していた。

 当たり前だ。相手は中学生の女の子で、自分を慕ってくれている。それどころか自分の破れたサッカーで、比類ない才能とやる気を持つ、好感の持てる女の子だ。

 それが、旧知の相手によって、その魅力を失っているのだ。怒りをレナードに向けるべきか、それとも回りに向けるべきか、分からなかったのだ。

 そして何より、自分の不甲斐なさに嫌気が差した。どれだけ自分が彼女を護ってやろうとしても、事実、何もやってあげることも出来なかった。

 だからこそ、彼女が大好きで、自分との共通点があるサッカーに、誘ったのだ。

 片方の肺が無いと言う事は、長時間の運動に支障が出る。短期間なら彼女に負けることもないが、彼女の目指すところを見ると、それがいいとは思えない。

 それでも、今日始めての笑顔を見せた彼女は、孝治にとっては輝いてみえていた。

昼前にパンの仕込みをやり、熟成をしている間に一緒にトランプをやったりして時間を潰し、一気に焼成する。其れをお昼御飯にして、二人で食べていたら、すでに彼女の顔には笑顔が戻っていた。

 焼きたてのパンに、バターを塗る。鼻腔をくすぐる芳醇な香りに、濃厚なバターの香りが混ざりあい、素晴らしい香りになっていた。

 これは、朝御飯もあまり喉を通らなかった真理にとっても、食指を動かすには十分なものとなった。以前も孝治がパンを作って居てくれた事はあったものの、自分で作った出来立て、というのは、真理もあまり経験がない。

 スープとミルク、コーヒーを用意して、日当たりの良い席で昼食を取る。その頃になると、彼女は完全に調子を取り直し、いつも学校で起きている事を孝治に話すぐらいの余裕は持てるようになっていた。

「でさ、祐樹っちって人気があるから、ファンクラブなんかもあるらしいんだよ」

「………モテる奴は死ねばいいとおもうよ」

 今時ファンクラブ、などと考えたものの、サッカー部が真理にとってはファンクラブに近いかもしれない。

 パンにバターを塗りながら、真理は「ええ~」と声をあげながら、告げた。

「なら、私はコーチのファンがいいな。パンも美味しいし」

「ありがとうごぜいます~」

 大仰に頭を下げながら、コーヒーを口に入れる。パリッと焼いたパンを口に入れながら、軽快に笑みを浮かべた真理へ、孝治も苦笑を浮かべた。

 昼食を終え、レストランを掃除していると、流石の真理も、レストランの中で屈伸し始めた。人生でも初体験に近い経験をして、萎縮した身体をほぐそうとしているようだ。

 というより、一日中ジッとしていられないのだろう。身体を動かさないと、気がすまないのか。

 孝治は、レストランの窓から、外を眺めた。

 相変わらずの快晴で、牧草地には、ま行の羊達や牛が、草を食んでいる。車が止まっている気配は無いし、夕立の心配もなさそうだ。

 ただ、若干風が強い。それが何によるものか分からなかったが、上空では風が吹いているのだと、孝治は判断した。

 入り口においてあるボールを手に持ちながら、声をかけたのだった。

「真理。外でサッカーでもしないか?」

 その孝治の言葉に、流石の真理も眉を潜めた。流石に不安なのだろうが、孝治も何もなく言ったわけではない。

「まぁ、ここがばれるのも時間の問題だろうが、まだ大丈夫だろ? それに、別にばれたって、問題無いさ」

「え?」

 疑問符を浮かべる真理へ、孝治は口角を持ち上げながら、告げた。

「もう、自分の中で、答えは決まってんだろ? 俺は、其れを応援するだけさ。どれを選んでも、な」

 孝治の言葉に、真理は驚きのまま目を見開いていたが、やがて破顔すると、顔をくしゃと歪めた。

 口を横一文字に閉じ、両目にジワリと涙が溜まり、やがて、孝治に飛びついた。

 腰に手を回され、胸に真理の頭がくる。一瞬、真理の行動に眼を見開いた孝治だったが、やがてしゃっくりあげる彼女の頭を、そっと撫で付けた。

 彼女は、まだ大人になりきれていない。今の状況は、不安以外の何物でもないのだろう。

(レナード………)

 悪いのは、踊らされている世論か、彼自身か。

 孝治は、真理の頭を軽く叩くと、彼女を外に向けた。

「んじゃ、今日は、ONE ON ONEでもやるか」

「うん!」

 真理の元気な声と共に、扉が開け放たれた。快晴の牧草地に走って行く真理の背中を眺めながら、ふと視線を上に、あげた。

 ざわざわと、森がざわめく。

「今日は、風が強いなぁ………」

 唸りを上げる風だが、不思議と下では感じない。まぁ、山から吹き降ろしの風が吹いているのだろう、と勝手に納得し、孝治はサッカーボールを軽く蹴り上げた。

 パシャッと、シャッター音が、聞こえた。

 

「――――え?」

 

「やぁやぁ、春日 真理さん」

 軽い音と共に、光がたかれ、それが途絶える。一瞬の虚空の後、呟いた真理の言葉に答えるように進み出てきたのは、一人の男だった。

 ジャージに、ジャンバー、そして清潔とはいえない無精ひげを生やしたその男は、今フラッシュを焚いたカメラを肩手に持つと、クルクルと回した。

「『話題の女子サッカー選手、学校を休み、男とサッカー』、か。まぁ、まだ無名に近い状況だがよ、へへ、良いネタが出来たぜ」

 そう男は笑うと、カメラを眺めた後、真理と孝治のほうに視線を向けた。

「………真理。こっちに来い」

 孝治は鋭い視線のまま、真理を手で招く。真理は、引きつったような表情で、顔を真っ青にしながら、孝治の方に駆け出した。

 孝治の腕を掴んで、影に隠れる。今日一連の出来事で、すっかり真理はマスコミに苦手意識を持ってしまった様子だった。

 彼女を庇うようにしながら、孝治は一歩、進み出た。

「何処のどなたか分かりませんが、さっさと其れを消してください」

 出来る限り丁寧な口調の孝治に対し、男は卑下の表情を浮かべる。やれやれ、と言った様子で頭を振ると、口を開いた。

「悪いけどね、兄さん。俺には真実を映す仕事があんの。わかる? 学業っつう学生の本分を無視して、ここで男とサッカーしてる女の子を、ね」

 その言葉に、孝治は淡々とした口調で、やや顔を引きつらせながら、口を開いた。

「その母親の了承は得ているんです。それに、なにより肖像権の侵害ですよ? 訴えても良いんですがね?」

 孝治の言葉に、男の顔に違う色が宿る。其れは怒気か、はたまた怯みから出る色か、孝治には到底分かりえないが、それでも男の態度が変わった。

 ただし、一瞬後に出たその表情には、余裕の色が見て取れた。

 カメラをさすりながら、男は口を開いた。

「いいかい、兄さん。法律をちょっと齧った程度で、とめられると思うんかい? 目線に黒いのを入れて、それで後日、紙面で謝罪すれば、ほら終わり。そういうもんなのさ、新聞、っていうのは」

 その男の言葉で、孝治の額に青筋が刻まれた頃。

 孝治の背中に回っていた真理は、あることに気が付いた。

「………風?」

 決してよそ見しているわけでも、状況が飲み込めていないわけでもなく、真理は、それに気づいた。

 頬を撫でる、強い風。それは、森繁牧場から見える木々の高い場所を力強く揺らし、そして静かになっていた。

 ―――否。

 大きく揺らした後、また無風のように静かになったのだ。そしてそれは、一本ずつの木しか揺らさなかったのだ。

 真理が、それに気づいて孝治に声をかけようとした、まさにその瞬間。

「キツ―――」

「へ?」

 先程まで何か喚いていた男が、何故か尻餅をついていたのだ。孝治が殴ったのか、と思ったものの、孝治はまだ自分の腕を振り払っていないし、近付いてもいない状態だった。

 ただ、男が尻餅をついており、その手元で、カメラが壊れているのだけは、見えた。

 そして、真理が見上げた先には、驚きに眼を見開く、孝治の姿があった。

 

 

 

 

 レナードは、心の奥から今の状況に、歓喜の声をあげていた。

 思ったとおり、春日 真理は凄まじい『タレント』を秘めていた。外見もそうだが、あの活発な性格に、あの運動能力があれば、世間の注目を浴びないわけがないのだ。

 テレビ局の通路、ガラスの窓に囲まれ、海が望める空中通路で、レナードは通訳もつけずに一人、歩いていた。

 胸中は、思ったよりも上手くいったことに対する安堵で満たされている。

 しかし、同時に後悔もしていた。

 これは完全に、孝治を敵に回したことになる。

 個人的にはコーチとしても孝治を引き込み、二人を連れて帰りたかったが、この状態では連れて行けるわけがない。まぁ、森繁と誠の二人を敵に回して、連れて行けるわけがないのだ。

 しかし、世論はレナードの味方をしていた。確かに本人の了承を得ていなかったのだが、画像を引っ張り出してきたのも、あの報道をしようと言い出したのも、マスコミだ。

 結果は、こうなった。予想以上の反応ながら、日本もサッカーで有名になりたいというのは本当のようである。

 まるで、世界全体が、自分の思い通りに動いているような、そんな感覚があった。

 そう、其れまでは、確かに彼の味方をしていたのだ。

 

 ざわっと、レナードの背筋に、寒気が走った。

 

 視界の隅に映ったのは、白い糸。まるで自分の髪の毛のように、視界にチラッと映った其れを見て、レナードの全身が震えた。

 レナードも、若輩とはいえ、白髪はある。しかし、その色の抜けた色ではない、艶のある真っ白い髪に、見覚えはなかった。

 シン、と、静まり返る通路。その時、レナードは違和感を覚えた。

 何故、人がいない?

 一日中番組を制作するテレビ局で、タレントは愚か、スタッフ、事務員の姿もないのだ。社会見学の一端で多くの人が入るこの場所で、今、レナードは一人だった。

 振り返った先には、影が在った。

 ただゆらゆら揺れる其れは、レナードにとって、犬にしか見えなかった。犬が礼儀正しく「お座り」をしているような姿だが、その姿が違うことに、気付いた。

 特徴的なのは、犬よりも高い場所にある、耳。ピンと伸びたその耳に届くぐらいの長さを持つ、膨らんだ尾。

 狐。レナードが、その動物を特定した時だった。

 

 

 赤い線が、膨らんだ。

 

 

 顔に走った、赤い一本の線が、中腹から赤く盛り上がったのだ。それがなんなのか理解する前に――――――

 

 消えた。

 

「………は」

 レナードが意識をしっかり察せると、そこは日常の風景だった。ガヤガヤと人が溢れる空中通路で、レナードだけが、立ち止まっていた。

 ただ、レナードは放心したように立っていることしか、出来なかった。

 

 

 そして、その日の夜。

 

 レナードの下に、一本の電話が入るのだった。


 

 


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