兄を大事にしたいという気持ちは、あった。

 兄は、世界で一番、私を大事にしていてくれる。わがままを言ったことはないが、私が寂しい時にはしっかりと隣に居てくれて、私が力を貸してほしいときには、そっと差し伸べてくれた。

 そんな兄が、世界で一番、好きだった。

 兄妹の関係ではなく、男女の関係として。

 一人の異性として、大好きだった。

 

 きっと、兄は、あの女の子を追いかけるはずだ。寂しい心と身体を包んでくれた兄は、其れを欲している人を、大事な人を捕まえに行くはずだ。

 夕闇が包み始めるレストランの中で、今まさに立ち上がろうとする兄を――――。

「――――だめ」

 私は、止めたのだった。

 

 

 

 

 晴海が何で逃げ出したのか、分からなかった。分からなかったが、あの眼の色は、危険な気がする。

 あの眼の色、それは、今の加奈の眼に宿っている、それだった。

「加奈、どいてくれ」

 生まれて初めてかもしれない、加奈の本気の拒絶。何故加奈がそんなことを言い出したのかも分からないが、今は、晴海が心配だった。

 しかし、加奈にも、あの色が、付きまとっている。それも、嫌だった。

「兄、私は、あの女の子に、嫉妬しているんです」

 加奈の口から毀れたのは、そんな言葉。

(嫉妬?)

 加奈が? 晴海に?

 何故、どうして、言葉は色々と出てくるが、言葉が発せなかった。

『知ってんだろ?』

 かつて、誠が言った言葉が、耳に響く。

あれは、家を飛び出す前日、加奈とあった最後の夜、窓から飛び出すところで言った、あの言葉を聞いた、誠の言葉。

『―――私は兄を、愛してます』

(――――ああ、そうか、そうだったのか)

 愛すべき妹は、自分の身体に包まれるように、震えている。

加奈は、何も変わっていなかったのだ。自分を失う、遠くに行ってしまう自分にはじめて明かした、あの気持ち。

それが、変わっていなかったのだ。

「兄。私の気持ちは、変わりません。世界中の誰が言おうが、私は、兄が好きです。愛しています」

 震える、小さな身体。拒絶されるという恐怖を振り切り、口にした其の言葉が、どれほど重いことなのか、知っている。身を引き裂かれ、絶望し、死んでしまうほどの苦痛を伴う可能性があることを、知っているのだ。

「兄、私と一緒に、生きてください」

 加奈は、その絶望を知っており―――自分は、それを、知っていた。

 

 静寂が、レストランを包む。先程までは響いていたヒグラシの鳴き声も、夜に包まれていく牧場に鳴り響くはずの虫の大合唱も、今だけは、消えていた。

 すすり泣く、加奈の声。抑えていた声がとうとう漏れ、喪失するのではないかと言う恐怖に震える、少女の声。

 だからこそ、伝えるのだ。

「加奈」

 あの時に、自分は言葉を返していない。見ようとも、返そうともしなかったのだ。

 だから、目の前の少女を縛り付け、恐怖に震わせていたのだ。

 

 

 だからこそ、この言葉を、発したのだ。

 

 

「俺は、お前が好きだよ。でも、それは兄妹の感情でしかない」

 

 

 きっと、それは、加奈には拒絶に聞こえたかもしれない。いや、きっと、拒絶に聞こえているはずだ。

 目の前の加奈の眼から、色がなくなる。身体の震えが止まり、口が僅かに開いた。

 それでも、俺は言わなければならない。

 俺が大好きなのは、間違いない。でも、異性云々で考えた時、其れはまた違う意味を持ち始めるのだ。

 だから、加奈を、抱きしめる。動きを止め、感情をなくしたような、人形の加奈をしっかり抱きしめ、俺は言葉を紡ぐ。

「だから、言う。俺は、兄妹として、お前を護り、お前の幸せを手伝って、お前の全てを支えてやりたい。でも、俺はお前を、異性としてみる事は出来ないんだ」

 加奈は、自分を血族として、『家族』としてみて欲しくないのだろう。一人の異性として、一人の『他人』として、見て欲しいのだろう。

 でも、『家族』だ。この世に二人としていない、大切な『家族』なのだ。

 『家族』を『他人』になんて、見られなかった。

「だから、加奈が困るようなことを言っても、俺は絶対に見捨てる事はしない。震える必要はないんだ。辛くなったら、此処に来ればいい」

 大切な、『家族』だから。それに満足できないだろうけども、自分にとって加奈というのは、命を犠牲にしてでも護りたい存在であり、失うわけには行かない存在だった。

 だから、それだけ、手を伸ばすわけにもいかない存在だった。

 たとえ、求められても。

 たとえ、奪われても。

 自分から、手を伸ばすこともなければ、させない―――兄としての、最後の戒めだった。

 だから、加奈をゆっくりと、身体から放す。人形のようだった顔には生気が戻り、空ろだった眼には、色が燈っていた。

 どれだけ喧嘩をしても、どれだけ暴言を吐いても、どれだけ過ちを繰り返そうとも。

 元に戻れる『家族』なのだ。

 失うと震える必要も、欲する必要も、ないということを、兄として、伝えなければならない。

 加奈は、静かに眼を伏せると、泣き笑いの表情を浮かべた。

 しばらく静寂が続いた後、口を開いたのは、加奈だった。

「………兄は、卑怯、ですね」

「そうかもな」

 ポン、と、頭を叩いてやる。彼女を横に座らせ、孝治は静かに、立ち上がった。

 加奈は、ぷいっと顔を横に背けると、孝治の視界から顔をそらした。暗いレストランの中、と言う事もあるが、顔の表情は窺えなかった。

「でも」

 そう、加奈は言葉を発した。ややあって、振り返った加奈の顔には、笑顔があった。

「それ、で、いいです。兄から、私が離れなければいい話ですから」

 加奈の言葉に、孝治は若干怪訝そうな表情を浮かべながらも、頷いた。

「? あ、あ〜〜〜〜。まぁ、そうだな」

(その内、良い人でも見つかるだろうし)

 ―――孝治は、察しはいいほうだった。その察知が瀬戸際で噴出す寸前、それでも戻る道があるときにしか機能しないから、今の思考にいたるのだ。

 本当に必要な時には察してくれるが、それ以外は、いまひとつ。孝治の女難は、此処から来ていたりするが、知らぬが仏。

 今は、其れより。

「んじゃ、追いかけに行くから」

 孝治の言葉に、加奈は一抹の寂しさを見せながらも、笑顔で答えた。

「………いってらっしゃい。兄」

 孝治は、追いかける。

 小さな小さな、大切な友人のために。

 

 

 

 

 

 

 誰も、自分を褒めてくれたことなんて、ない。

 誰も、自分を見てくれたことなんて、ない。

 誰も、自分の変化なんて、見てくれていない。

 誰も、自分の周りに、居ないのだ。

 朦朧とした意識の中、時間も方向も、距離も何もかもを把握できていない晴海は、ただ、前に進んでいた。

 小さい頃から、自分は人とは違うと感じていた。

 人が笑うことを、楽しいとは思えない。人が泣くことを、悲しいとも思えない。

 自分以外の人のために何かを行動しようとは、思えない。両親を大切だと考えたことすら、ない。

 生活費は、端末で手に入った。自分の思ったとおりに動く世界と、自分以外の存在で固められた世界に挟まれ、その度に世界が色を変えていった。

 自分の闇が、いやに目に付いた。

 晴海は、そこでようやく動きを止めた。感じるのは、湿った空気に夏特有の外気、そして森のにおいだった。

 裏山=B入った人間のほとんどが出て来れないという、地元では禁忌の場所。孝治と何度か訪れて、何度も遊びに入って、何度も笑った場所。

 そこが、酷く悲しい。

 きっと、自分は今、酷い顔をしているだろう。何でこうなっているのか、自分の感情も分からないというのに、自分の行動が間違っているとは思えなかった。

 孝治が抱きしめる加奈の姿が、瞼の裏に焼きついている。心の奥底から噴出す何かが分からず、そしてまた、何で嫌なのかも、理解できなかった。

 何より自分が、理解できなかった。

――――森を、歩く。

 昔から、何でも出来た。出来てしまった。

 料理も、武術も、運動も、勉強も。人一倍理解が早くて、人一倍吸収が良くて、人一倍、疎まれた。

 思えば、昔から忌み嫌われていたはずだ。其れを当然と受け入れていたし、回りも其の反応だから、それは間違いないことなのだと、確信していた。

 自分は、【闇】だと。

 何が出来ても、何をしても、誰も褒めてくれない。拍手を向けられるのは、いつも真理のような【光】の中に居る人だけ。

 

 自分を、褒めた存在なんて――――。

 

悪いわけない、っていうか、さすが、つうか、凄いなお前! ありがと! お前最高だよ!』

――――ビクンと、体が跳ねた。

 脳裏に焼きつくのは、レストランの外装に迷っていた孝治に助言して、帰ってきた笑顔と温かい手。心臓がやけに熱く、ズキリと痛む。

 自分は、【闇】なのだ。

最初から見つめていてくれる存在だって居ないし、ずっと、見つけてくれる人だって居なかった―――。

よ、よかった。………はぁ

――――歩みが、少しだけ、遅くなった。

 思い浮かぶのは、深い森の外れで襲われていたはずの自分を見つけて、助けてくれた孝治の姿。そして、心の奥底から怒りを露わにした、孝治の姿。

『きっと、違う』

 心の誰かが、声を荒げた。自分なのか、そうなのか分からないその声に、自分の心は、反応しない。

 きっと、自分の監視の元で子供が居なくなったから、必死に探していたはずだ。

――――歩調が強まり。

 

お前じゃなければ助けなかった、なんて事はいわない。でもな、お前だからこそ、俺はあそこまで怒ったんだ。そこだけは、間違えんなよ?

 

――――次の瞬間、止まってしまった。

 孝治が発した、其の言葉。自分がずるいと感じた、其の言葉。

 忘れるわけが、ない。忘れるわけが、ないのだ。

 心の何かが、叫ぶ。言葉にならないその言葉を聞いて、違う何かが、声をあげた。

『誰もお前のことを見ていなかったんだろう?』

 自分の変化なんて、何一つ気付かない。変わったとしても、蔑むか、見下すかのどちらかで、誰も気に掛けてくれなかった。

 気に掛けてくれることなんて、一度も――――。

『お前も、大概にしろよ』

 思い出すのは、怒り心頭の、孝治の顔。始めてみて、初めて受けた頭への衝撃は、未だに忘れられない。

『お前な、誰も見てないだぁ? 現に俺が気付いたんだろうが! さらにいえば、その汚れも臭いも俺のせいなのに、お前のせいに出来るか!』

 自分が選び、した行動なのに、自分の所為だと怒ってくれた孝治。お風呂の準備をして、自分の制服を洗ってくれて、美味しい御飯を用意してくれた孝治。

 何かが、叫ぶ。

 お前の周りに、誰も―――――

「何してんだ? お前?」

―――そこで晴海は、ようやく歩みを止めた。

 声を掛けたのは、リュックサックを背負った、誠だった。

 

 

 

 

 月夜の映る川沿い。一際大きな岩に両膝を抱いて座る晴海と、荷物を降ろして顔を洗う誠の姿が、あった。

 誠自身は、この裏山≠ノ向かい、調査をしていた。今日はちょっと長引いてしまったから、一抹の不安はあるものの、野宿でもしようと思っていたのだ。

 そこに歩いてきたのは、晴海だった。

 学校帰りの、制服の姿のまま、幽鬼のようにふらふらと歩くその姿を見て、流石にとめたのだ。

 そして、止めてから、理解した。

『―――何があった? 話せ』

 三白眼どころか、光すら消えた絶望の眼差しを持っていた晴海へ発した誠の言葉は、其れだった。言葉を返すよりも早く、彼女の手を引いて、川の辺まで歩いてきたのだ。

 意外にも晴海は抵抗する様子も見せず、付いてきてくれた。

川辺の岩に腰掛けると、塞ぎこむように座り込んでしまったが、ぽつぽつと言葉を発してくれた。

たどたどしく、そして主語も述語も関係なく、理解するのに凄まじい労力を要したが、それでも理解した。

その内容からあらかた状況を把握した誠は、頭を抱える。自分がほんの少しだけ眼を離しただけで行動を起した加奈にもそうだが、その行動を取った孝治も、殴りたくなった。

しかし、何よりもいらだったのは他でもない、晴海へだった。

(………【闇】、ねぇ)

 加奈が何かをして、孝治が何かをして、この少女は追い詰められているのだ。

しかし、原因の多くは、自分の気持ちがなんなのかも分からず、また、自分が如何しているかも分からず、此処まで来た晴海だった。

 だが、それは晴海だけの問題ではない。生活環境が大きく影響する問題であり、いままで彼女があまり経験したことがないのが、原因のはずだ。

 ここで、誠自身が告げる事は、簡単だ。頭が良く、小説や人の機微を察することが出来る晴海なら、その意味を理解し、行動できるはずだ。

しかし、これは彼女自身がしっかりと向き合わなければいけない問題でも、あった。

 すっと、晴海に視線を向ける。小さな少女は、両足を胸に抱いて、その脚に額をつけて、塞ぎこんでいた。

 きっと、自分が一番、分かっていないはずだ。

 『忌み子』と呼ばれる子供達がどんな扱いを受けるのか、誠自身分かっていた。自分のときよりも酷いのか、軽いのか分からないが、それでも心の傷は、深いはずだ。

 その傷を、孝治との触れ合いで癒している間に、新しい傷が出来たのだ。

(不幸自慢したって、しかたないっつうのになァ………)

 天を仰ぎながらも、誠は思考を張り巡らし、そして至った。

 結局の所、晴海は自身の【闇】を、理解し切れていないのだ。何が【闇】で、何が【光】なのか、理解していないのだ。

 そして、其れと向き合うことを、当の昔に、止めてしまったのだ。

 なら、教えればいい。いや、気がつかせればいい。

塞ぎこむ小さな少女が座り込む岩に寄りかかりながら、誠は口を開いた。

 誰のためでもない、晴海のために。

「あるところにな。絶対に認められない奴がいたんだよ」

 だから、紡ごう。

 本人が絶対に、口にしないことを。

 

 

 まるで、昔話をする様に、唐突に、それでも大切に。

 誠は、切り出した。

 誠の口が動いた瞬間、晴海が顔をあげる。それに視線も向けず、誠は言葉を続けた。

「そいつには、才能があった。その才能にかまけず、努力もしていたし、慢心もしなかった。その集中力は凄いものだったし、誰もが認めるものだった」

 誰だ、と晴海は思う。目の前の誠自身の話なのか、と考えていた。

 薄ぼんやりとした風景は、真っ青な月の明かりで、浮かんでいる。まるで幻想的な雰囲気を醸し出す川辺は、知っている世界とは思えなかった。

「でも、そいつに日の目が当たる事は、なかった」

 物を造れば其れが直前で壊れ、人に頼まれたものは用意した瞬間からどこかに行き、努力すれば何かを傷つけ、結果が出るほんの前に、災厄が降り注ぐ。

 報われない努力。それが、何度も続いた。

 誠は、眼を伏せる。小さな声で、言葉を続けた。

「最初は、小学校の絵だった。桜を満開に書いた絵を提出するその日、通り雨が降って、その子の絵だけが水浸しになった。水彩画だから絵は駄目になり、結局その子のところだけ白紙画が張られ、一年間、其れが続いた」

 無論、何度も何度も、絵を書き直した。完成して、学校にもって行くまでの間に何かしらの被害にあい、駄目になっていった。

 そして、先生も周りの眼も、白くなった。結局は、其れをサボっている言い訳と思っていたのかもしれない。

 晴海は、誠の言葉に、耳を澄ました。誠自身の話だと思っていたが、どこか、違うようだ。

「その子は、中学生の時、学園祭実行委員に選ばれた。下準備、配置、手配、全部やったが、準備の当日、運んでいるトラックが事故を起こして、積荷だけ、駄目になった」

 違う。これは、誠の話では、ない。

 そう、唐突に理解した。そして其れは、近い人の感覚が噴出した。

「その子は高校生まで、サッカーをやっていたんだ。とても上手で、ユースどころか全日本の選抜にも選ばれる話が出ていた。現に、多くのスカウトがその子に眼をつけていたが――――ある日、その夢も、潰えた」

 

そう、これは、誠ではなく―――――。

 

「自殺しようとした同級生を庇って、片方の肺を潰しちまった」

 

 孝治の、話だった。

 

 

 誠は、自責の念が込められた眼差しで、宙を仰ぐ。昼間のように明るい闇夜が、はっきりと二人を映し出すが、煩い虫の鳴き声も川のせせらぎも、何一つ聞こえない。

 誠は、言葉を紡いだ。

「絶望したはずだ。サッカーだけは結果を残していたのに、真実の社会を知らないくせに、勝手に絶望した餓鬼を助けるために、自分が犠牲になったんだから」

 屋上から飛び降りた同級生を、必死に受け止め、地面に叩きつけられ、肺がつぶれた。その所為で激しい運動は出来なくなり、誰も注目しなくなった。

 ただ居合わせただけなのに、下手をすれば死んでいたかもしれないのに、彼は行動していた。

「それでもそいつは、夢を持つことを諦めなかった。何時までも腐る事無く、調理師免許を取るために専門学校へ進学し、いろいろあったが免許を手に入れて、絵を描き続けて、牧場を、始めた」

 もう、確信した。誠が話しているのは、孝治自身の話に、違いなかった。

 誠は大きく頭を振るうと、何時の間にか顔をあげていた晴海へ、視線を向けた。誠の視線を受けた晴海は、その眼差しに、身体を震わす。

 それでも、誠は、言った。

「【闇】なんて、誰にだってある。俺にだって在れば、あの孝治にだって、いくらでもある。お前だけじゃない」

 人に知られたくない【闇】は、誰にだって、ある。【闇】がなければ、【光】もないのだから。

 大切なことを、誠は知っている。その大切なことを、この小さな女の子は、知らないのだ。

 なら、手段だけは、教えてやる。

「大切なのは、【闇】に隠れることじゃないだろ? 向き合うことじゃないのか?」

 大切なのは、答えを出すこと。他でもない、自分で。

「御前は、今、何がしたいんだ?」

 

 

 

 

 心が、嫌にざわめく。何重にも重なる、音域の違う自分の声が、耳の奥底に叩きつけられた。

 逃げ出した事は、いくらでもあった。現に今、自分は逃げ出したのだ。

――――何から?

「………孝治、から」

 口から毀れた、その言葉。誠にも聞こえたはずだが、誠は何も言わなかった。

――――どうして?

 見たくなかったその事実が、嫌だったから。

――――事実って?

 ここで、言葉が、消えた。

 孝治が加奈を、抱きしめていたから? 孝治が、違うところに行ってしまうと感じたから?

――――如何したかったの?

 久しぶりに、孝治と話せると思った。真理や箕郷、祐樹は嫌いではないが、たまには孝治とゆっくり話せると思ったのに――――。

 

 そこで、否、ようやく、思い至った。

 

 自分は今、何と考えた? 真理や箕郷、祐樹に、孝治のことを、考えていたのだ。

「………」

――――ああ、なんだ。もう、自分は一人じゃないんだ。

 知っていたはずだ。自分はもう、今までの自分ではない。二ヶ月前の自分ではなくて、今は、多くの友達が、そこに居るのだ。

 ただ、逃げていたのだ。【闇】に。長くいたから、自分もそれだと、思い込んでしまったのだ。

「わ、私、は――――」

 誰の声? 細くて、今にも毀れそうで、弱々しい声は、誰の物?

 ふと、膝の上に何かが、毀れた。そのまま太股に伝って脚に落ちて行く水滴――――雨かと思って見上げたが、そこにあるのは、満天の星空。

 何時の間にか、雲は掻き消えていた。

「孝、治に、逢いたい………ッ」

 目尻からあふれ出すのは、言葉と涙。小さな体が震えだし、自分の腕で押さえるが、止まらない。

 声も、涙も。

「こ、孝治と、話が、したいよ………」

 今、全てが分かった。

 

 自分は、孝治が好きなのだ。

 

孝治が好きだから、疎遠になっていたことが辛くて逢いに来たし、加奈と抱き合っていたから嫉妬したし、いても経ってもいられなくて、逃げ出したのだ。

 自分が何をしていたのか、ようやく理解した。自分がなんなのか、ようやく分かった。

 分かったら、止まらなかった。溢れ出した想いが、涙となってあふれ出し、震えだした。

 誠は、何もしない。見届けて、くれるのだ。だから、自分で答えを見つけられたのだ。

 分かったのは、自分の気持ち。

 

「孝治に、逢いたい、よぉ………ッ」

 

 言葉が、漏れた。紛れもないその言葉が、自分の本心であり、今の気持ちそのものなのだと、分かったのだ。

 素直な、気持ち。押し隠していた、否、気付かなかった、その気持ち。

 それに気がついた、その時だった。

 

「――――」

 

 不意に、風が啼いた。誠には聞こえなかったその声だったが、晴海には、届いていた。

 その場に、立ち上がる。響く風の音に、葉の掠れる音が混じって聞こえる山の音に、その声が混じっていた。

 そして晴海は、駆け出した。

 走りづらい川辺なんて事は忘れ、走る。途中で脚がつっかえ、盛大に倒れるが、痛みを感じるよりも早く、駆け出した。

「お、おい!」

 誠が呼び止めるが、もう遅い。森の中に飛び込んだ晴海は、思いっきり走った。

 何時の間にか見て見ぬ振りをしていた、自分の気持ち。友達の中にも同じ想いを抱いているのはいるが、負けたくなかった。

 生まれて始めて感じる、この想い。張り裂ける前に。張り裂ける前に―――‐‐‐。

 

 森の隙間に見えたその体を見て、もう我慢できなかった。

 

「孝治っ!!」

 

 気がつかないうちに声が響いた。

振り返る、汗まみれ、小傷だらけの孝治。その見慣れた眼差しが、自分に注がれた瞬間、孝治の体が動いた。

「晴海!」

 そういい、近付いてくる孝治を見て、もう晴海は我慢できなかった。

 真正面から、孝治の身体に抱きつく。鍛えられた、自分の身体の倍以上ある腰に抱きつき、胸に顔を押し込んだ。

「あ、う、うああ、ああ………ッ!」

 溢れ出す、言葉にならない想い。きっと、届いていない事は分かっているが、それでも孝治は躊躇いながらも、晴海の身体を、抱きしめた。

 きっと、晴海がこうしている意味が、分からないはずだ。遊びに来た友達が入り口で立ち止まり、森に向かって駆け出して、啼きついてきたのだから。

 それでも、孝治は、受け止めた。受け止めて、くれた。

「おいおい、泣くなよ。っていうか………まぁ、いいか」

 未だに嗚咽が続く晴海を抱きしめ、孝治は眼を閉じる。今は、晴海の安全を喜び、ただ、受け止めてやるだけだった。

 ただ、優しく風が、頬を撫でていた。

「心配掛けさせんなよ、バカ」

 その言葉だけが、晴海の心を、温かくした。

 

 

 

 

 泣きつかれ、孝治に抱きついたまま眠ってしまった晴海を背負い、孝治はついで現れた誠と、顔を合わせていた。

「加奈との話も、終わったんだな?」

「何でお前は分かるんだよ」

 加奈との付き合い方で一番心を割いていてくれたのは、誠だった。孝治としては、加奈は妹、という大前提は変わりないが、それでも心配だったのだ。押し切られると考えていたが、結局其れも、ただの杞憂に終わった。

「でもよ、晴海は何で逃げ出したんだろうな?」

 ―――根本的に、理解できていないのだから。

 頭を抱えながら、誠は息を吐く。孝治に背負われ、今は眠る少女は、自分の気持ちに向き直り、其れを受け入れているというのに、その相手がこれだと、少し悲しくなってしまった。

 きっと、晴海は世界観が変わったはずだ。孝治が変わらないとこれ以上話は進まないし、進んでも問題かもしれないが、それでも変わるのだ。

「孝治」

 だから、友人として、警告してやる。これ以上はきっと、手助けしてやれないだろうから。

 小さなお【姫】様を背中に抱いて、事も無げに振り返る不屈の友人へ、誠は告げた。

「子供ってのは、思ったよりも早く、成長するぞ」

 子供だから、自分の心が分からなくて、今回のように暴走する。子供だから、後戻りできないのではないか、と思ってやけになり、凶行に奔る。

 だが、気がつくのもまた、子供なのだ。

 気が付いた後の成長は、早い。子供から大人になった誠は其れを知っているが、残念なことに、目の前の友人は、其れを理解していない。

「? あ、ああ」

 きょとんとした顔で、小さく頷く孝治。それでも大事そうに【姫】を背負いながら歩き出すその背中を見て、誠は笑った。

(知ってるか? 孝治?)

 その背中の子供も、今、お前の裏に立っている誠自身も、お前に助けられているのを。

 自分の存在が、どういうものか理解できるか、誠には楽しみだった。

 

 

 

 

 

 

 自分は、【闇】なんかじゃない。

 【闇】の深い場所に逃げ込んで、自分がそうなんだと、思い込んでいただけだった。

 周りを見れば、誰かが居る。声を掛けてくれる人も居れば、気に掛けてくれる人も、居た。

 きっと、ちゃんと見れば、気に掛けてくれる人は、絶対に居る。二ヶ月しか付き合いがないが、それでも真っ直ぐ見てくれる人が、居たのだ。

 その人を、その人達を、大切にしたい。

 分かったのだ。【闇】か【光】か、それは立ち位置だけなのだと。

 【光】に行きたいのであれば、【光】に向かえばいい。今まではただ、【闇】に逃げていただけだ。

 私は、其れを選べる。

 私は、【人間】なのだから。

 

 

 

 


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