無事、レストランを開業する事ができた孝治。其れを手伝いに来た妹、加奈と、その妹を止めに来た誠。
三人の牧場生活が、始まった。
兄と、その兄と仲がいい誠さんとの共同生活が、始まりました。私としては、兄との生活に水を差して欲しくなかったのですが、まぁ、いいです。
兄の横に居るだけで、私は幸せです。
会社では、いつも年上の方に囲まれ、心休まる場所が無かった。大学では、仲がいい相手はいても、私を見るあらゆる眼が、嫌だった。
それが無い。あるのは、私に無償の愛をそそいでくれる、兄の眼差し。
冷たくも、それでも私を認めてくれている、喰えない友人の誠さん。
それだけで、満足でした。
でも、私と兄との間に、何人かの姿が、ありました。
それが、嫌でした。
私の、愛しい愛しい、兄。
其れを、取らないで――――――。
九月 十日。
早いもので、加奈が森繁牧場に来てから、一週間が経とうとしていた。
レストランが開業してからも、お客さんは茜にむつみ、そしていつもの三人娘だった。時たま五十六じいさんが顔を出していってくれるが、やはり、顔見知りしか来てくれていなかった。
三人娘は、欠かさず朝と夕方に顔を出してくれる。しかし、忙しくなってきた孝治を気遣ってか、前ほど声をかけてこなくなった。
「違うっつうの」
そんなことを考えていた孝治に、誠が突っ込みを入れた。
先日雨が降ったせいか、朝靄が湧き上がる牧草地で、孝治は顔をあげた。視線の先には、半袖を肩まで捲り上げている誠の姿が、あった。
誠は、藁の束を肩に担ぐと、言葉を続けた。
「まぁ、あいつ等もそういう考えはあったと思うけどな、本当の理由は加奈だぞ?」
「加奈が?」
誠の言葉に疑問符をあげたのは、孝治だった。孝治の記憶の中では、加奈は三人と仲よく話をしている姿しかなく、其れを疑いもしなかったのだ。
事実、内容だけなら加奈は三人娘と仲良くしていた。三人も加奈に対して悪い印象を持っていないようで、戸惑いつつも対応している。
しかし、誠は眉を潜めた。
「仲は良いが、お前に話しかけようとすると、絶対に邪魔するぞ? まぁ、わざとに見えないから、お前らも気付かないと思ってたがな」
「そうか?」
誠にそう指摘されても、そうとは思えなかった。今までどおり真理とはサッカーの練習をしているし、晴海とも会話している。箕郷のコーヒーだって淹れているし、最近顔を出すようになった小夜子の会話の相手まで、していた。
飯井 小夜子だが、レストラン開業以来、むつみさんの引き取り手として、何度もお店に顔を出すようになった。彼女自身もコーヒーが好きらしく、気に入ってもらえたらしい。
唸りながら、孝治は言葉を続けた。
「ま、加奈も親父に言われたのか、来週には戻るらしいから、手段を考えないとな」
開業の次の日、久利からの電話でなにやらもめていたようだったが、結局は加奈の方が折れ、十七日に帰ることが決まっている。
一週間経ったが、二人の働きは素晴らしかった。
基本的に夜活動する誠は、早起きが苦手だったようだが、今ではこうして起きて、孝治と一緒に牧場の世話をしてくれていた。基本的に一人でやっていた事だったが、二人だとこれほど楽になると、感心したものだった。
加奈は、朝の仕込みである。誠のキャンプカー(それほどの大きさではない)で朝の仕入れを行い、仕込みをしてくれていた。仕込みだけでも終わっていれば、後は孝治の出番である。
朝御飯のメニューを考えながら、孝治も藁の束を二つ、肩に担ぐ。乾燥させるために、牧草の端っこに広げながら、言葉を続けた。
「手段っていうと、労働か?」
「ああ。一人だと、どうしても限界が出てくるからな。つっても、誠にずっと居てもらうわけには行かないし、加奈も同じだ。労働が多いし、女性よりは男性の方がいいんだけどなぁ」
手伝ってくれるという同期は居たものの、向こうにも生活は、ある。レストランで収入があるとはいえ、一日に二千円単位では、まだ順調とはいえない。
晴海達にも払ってもらえばいいと誠は言っていたが、流石に払わせるわけには行かなかった。茜ですら本人に言われ続け、渋々受け取っている具合だ。
ちなみに、むつみは物々交換。料理を提供し、野菜を供給してもらっていた。
料理の評判は、上々。時々、真理の母親が顔を出してくれるようになってからか、最近は主婦の姿も、あった。
と、その時だった。
カンカンカン。
金属同士がぶつかり合う音が、牧場に響く。誠と一緒に振り返った孝治の視線の先には、エプロンを着けた加奈の姿が、あった。
片手にオタマ、もう片手に鍋を持った彼女は、満面の笑顔で声をあげた。
「兄、誠さん! 朝御飯ですよ♪」
誠と顔を見合わせ、苦笑した。そして、そのまま歩き出す。
仲はいい、三人だった。
「由々しき事態だよ」
昼休み。もはや恒例となった二年A組の晴海の席で、そんな言葉が響いた。
晴海の席の周りの机を集め、昼食の場所を作った。四つの机の隅に座った真理の言葉に、向かいに座っていた箕郷が、無言で口を動かしていた。
中学校では珍しいが、銀楼学園は、弁当制だった。人が多いという理由からだが、売店もあるので、それほど文句も多くなかった。
真理の横に座っているのは、晴海。その向かいに座っているのは、何を隠そう、祐樹だった。以前、昼食に誘われて以来、ずっと一緒に食べているのだ。
もはや男子生徒に味方が居なくなった祐樹が、口を開いた。
「えっと、何がかな?」
「加奈さんだよ。ほら、妹さん」
祐樹の言葉に、真理が若干嬉しそうに返す。キョトン、とした顔を隠さない祐樹と違い、無反応だった箕郷が反応した。
「ああ、あれな。嫌なやつじゃないんだが、間が悪いよな。この間だって、忙しいからコーヒーを淹れてやった事があるだろ? あいつのせいで渡せなかったんだよ」
二人はそのまま、加奈の行動を論議し始めた。その会話を話半分で聞きながら、祐樹は心の涙を流す。
(頼むから、主語で孝治さんの名前を出してくれないかなぁ)
偶然か、もしくは名前を出さなくても分かり合っているのか分からないが、三人はわざわざ孝治の名前を出すような事をしない。
其のせいで、クラスで祐樹に「加奈という妹」が居る、「コーヒーが好き」で、「真理にサッカーを教えている」等、根も葉もない噂が広がりつつあるのだ。
祐樹自身も、三人が孝治のことをどういった眼で見ているのか判断しかねる事もあり、あまり会話に入る事は無かった。
真理は尊敬する人、という感じで、箕郷は話しやすい、一緒に居易い相手という感じを受ける。
一番の謎は、晴海だった。元々感情を読みにくい人物ということもあり、孝治に良い感情を持っていることは感じても、好意を持っているとまでは判断できなかったのだ。
(いや、流石に、それはないとは思うけど………)
孝治に好意を持っているという事は、自分が失恋するということだ。それは自分の中でももやもやとするし、なんか、許せない気がしてしまう。
それでも、孝治なら、と考えてしまう自分が居て、嫌だった。
「………祐樹?」
「ん?」
物珍しい、晴海の問いかけ。それに顔を向けた祐樹は、苦笑しながら答えた。
「あ、なんでもないんだ。あ、それでさ、加奈さんだけど――――」
結局、三人も加奈に嫌な感情を抱いているわけではないということで、現状維持、と相成った。誠からあと一週間ぐらいで帰るという話を聞いていたから、だろうか、全員が納得していた。
ただ、一人だけ。
晴海だけが、少し、表情を曇らせていた。
昼食を終え、箕郷の提案で自動販売機コーナーへ飲み物を買いに出た一行。自販機コーナーにおいてあるベンチを箕郷が占領している中、スポーツドリンクの缶を自販機から取り出した真理が、唸った。
「あ〜〜〜〜。でも、コーチと練習の時間が減っちゃうよぉ〜〜。何か良い方法ないかな?」
真理が相談しているのは、祐樹。祐樹は、周りの視線を気にしつつも、お茶のペットボトルを取り出しながら、答える。
「其ればっかりは、どうしようもないんじゃないかな? 牧場の仕事は今までもしてたけど、今度からさらにレストランもしなくちゃいけないんだし」
「むぅ」
不満げな声をあげる真理だが、孝治の仕事を理解しているのか、文句を言うつもりはなさそうだ。
「あ〜ぁ。社会って、大変だね」
プルタブをあげながら、しみじみと呟く真理。其れを聞きながら、祐樹も唸る。
「そうみたいだね」
そんな世間話をしているときだった。
「あ、先輩方」
そんな言葉と共に、一人の少女が歩み寄ってきた。
細身の身体に、気の強そうな眼差しを眼鏡の奥に添えた、後輩の少女―――飯井 小夜子だった。興味津々の眼差しで歩み寄ってきた彼女は、一番近くに居る祐樹へ、頭を下げた。
「瀬戸先輩、こんにちは」
「ああ、こ、こんにちは」
挨拶され、返す。次々と挨拶をして行く小夜子の向こう側で、固まっていた男子生徒のまなざしが強くなる。
「おい、あれ、飯井さんだろ? ほら、後輩で一番かっこいい女子ってさ」
「あれ、瀬戸 祐樹だよな? け。モテやがって」
「遠藤に春日………死んでしまえ。男の敵。ハーレムかよ」
日に日に酷くなる、祐樹への陰口。その大半が羨望による嫉妬の言葉だったが、濡れ衣以外の何物でもない祐樹にとっては、痛み以外の何物でもない。
何故、自分は此処に居るのか? という根本的な疑問に陥っている祐樹を置いて、後ろでは小夜子が口を開いていた。
「あそこ、いい場所ですね。母さんがオススメするから行ってみましたけど」
「えへへ〜。でしょ?」
自分のことのように嬉しそうな真理へ、小夜子は笑顔でうなずく。気に入ってもらえると確信していた箕郷は、席の確保する手を止めながら、口を開いた。
「あのコーヒーだけは、勝てないからな。手料理のお菓子がまた巧くて―――」
「え〜〜〜? お菓子も美味しいけど、料理のほうが上手だよ」
箕郷と真理が色々と話を続けるのを見ながら、小夜子は晴海へ視線を向けた。
「東野先輩。こんにちは」
小夜子に挨拶され、晴海は小さく頷く。晴海の対応に、一瞬だけ怪訝な表情を浮かべる小夜子だったが、適当に納得したように頷くと、答えた。
「どちらにしても、森繁さんは大変そうですね? 借金があるんですか?」
その小夜子の言葉に、晴海が頷き、顔をあげた祐樹が細くした。
「大変だよ。期限内にお金を返さなくちゃいけないみたいだし。それだけならまだしも、加奈さんや誠さんが帰っていったら、一人でやるしかないんだろうし」
「よし。空いたぞ」
ベンチを確保した箕郷が手を挙げ、それに答えるように晴海が歩み寄る。彼女自身が選んだ飲み物と、箕郷に頼まれた飲み物を持って、近くの椅子に座った。
箕郷に渡すのは、勿論コーヒー。無糖のブラックを受け取った箕郷は、ははん、と鼻を鳴らした。
「ま、最悪は私が学校やめて手伝いに行けばいいだけだよ」
「………それ、孝治が怒る」
色々と問題発言を発する箕郷に、冷静に言葉を紡ぐ晴海。その二人に続くように座った真理と祐樹は、口を開いた。
「でも、コーチって怒った事無いよね?」
「あ、そうだね。僕は見たこと、ないなぁ」
ちょっとした言葉の内容に、全員の関心が向く。思い返せば、真理と祐樹、箕郷は孝治が怒鳴りつけるほど怒っている様子を、見たことが無かった。
「この間のお手伝いも、結局は怒られなかったよね。………思い返せば、邪魔どころか仕事も増えていたし」
真理の言葉に、箕郷もバツの悪そうな表情を浮かべ、頷いた。
「………ああ、確かに、な。キッチンの片付けの間もなく、寝てたし」
キッチンの片付けも、牛舎の修繕も、結局は孝治がやっていた。それに対して孝治は怒る事無く、自分たちの行為にただ「ありがとう」と感謝の意を示しただけ。
つまるところ、本気で怒られたことがないのだ。
「………私は、ある」
其の発言をした、晴海以外は。
「………」
「………」
「………」
「………」
四人、全員の沈黙の後。
「「「ええええええええええええええええええ!?!?」」」
三人の悲鳴が、鳴り響いた。
「―――さて、と」
牛舎の藁を敷きなおした孝治は、虚空を見上げた。
今は、誠が裏山の調査に向かっており、加奈と一緒に牛舎の掃除をしているところだった。全体的に会話の無い仕事場だったが、妹の加奈は楽しげで、孝治も集中できる。
その集中を一旦きった孝治は、牛舎の中を洗っている加奈へ、声を掛けた。
「少し休むか。今、コーヒーとおやつを作るから」
「あ、そうですか。分かりました」
そういった加奈は、流石に少しくたびれているようだった。彼女の苦労を労うように、頭を撫でてやる。突然頭を撫でられた加奈だったが、すぐに顔をほころばせると、頷く。
「有難うございます。兄」
「? まぁ、いいか。ほら、行くぞ」
加奈をレストランに案内し、布巾を渡す。其れを受け取った加奈は、それで顔を拭きながら息を整える。元々化粧をしない妹だから出来る光景だな、などと考えながら、孝治はポッドに水を入れ、火をつけた。
コーヒーが出来るまでにクッキーでも焼こうと、材料を取り出す。小麦粉をふるいに掛けていると、声が響いた。
「大変なんですね、牧場、というのは」
「まぁ、な」
加奈が力仕事をするのは、初めてのはずだ。今まではパソコンでの仕事や、数字の上での仕事しかやったことがない。それ以前に、運動だってそれほどこなしているわけがないのだ。
「でも、お前よりは向いてるさ。ま、よく倒れないもんだ」
コーヒーが出来るまでのつなぎの為、麦茶を淹れ、加奈に差し出す。其れを受け取った加奈は、神妙な表情で見上げると、口を開く。
「兄も、肺が一つしかないじゃないですか。其の身体で、こんなに辛い仕事をしているのですか?」
加奈の言葉に、孝治は返答に困ったような笑顔を浮かべた。ややって、口を開く。
「元々、運動は出来るほうだったからな。お前だって知ってるだろ?」
サッカーの経歴を思い出した加奈は、複雑な表情を浮かべた。その加奈に苦笑しながらも、孝治も向かいの席に座った。
僅かに訪れる、静寂の間。ざぁ、と窓の外の牧草が揺れ、震えた。
―――蒼い海。草がうねりを上げ、新緑まぶしく輝くその風景は、どこか幻想的な空気を与えてくれた。
「………良い場所ですね、ここは」
不意に毀れた、加奈の言葉。それに、孝治は答えた。
「ああ。一時はどうなるかとも思ったけど、結構、どうにでもなるもんだな。これも、今はもう居ない祖父母のお陰だよ」
曾祖父さんと曾祖母さん、御祖父さんと御祖母さんと二代にわたって紡がれた牧場が、今まさに甦りつつある。以前の規模とは比べ物にならないとはいえ、活気も戻り始めた。
それに、加奈も頷く。
「私はほとんど覚えていませんが、若い人でしたね。今は、どこに居るのやら」
森繁祖父母が姿を消して、早数年。流石に死んでいるということで表立った捜索はしていないが、まだ生きていそうな気がしてしまう。
そこで、加奈が小さくため息を吐いた。麦茶の入ったコップを、小さく握る。
「兄が此処に来てから、グループも好調です。お父さんは何か言っていましたが、他の企業と比べれば、明らかに成長しています」
親族がやっている企業が好調と聞いて、微笑む孝治。其れを見た加奈は、小さく息をはくと、口を開いた。
「どうなんでしょうね」
「は?」
怪訝な表情を浮かべた孝治へ、加奈はそれ以上言葉を紡がなかった。コーヒーの抽出が終わったのを確認した孝治は、席を立った。
「んじゃ、今コーヒーを淹れてくる。其のあと、加奈は仕込み、俺は牧場の整備しに行くから」
「はい」
加奈の言葉に、孝治は満足げに頷いた。
「あ、クッキー作るの途中だった………」
すっかり忘れていたクッキーの材料だけを眺めて。
其の日は、真理は部活、箕郷は小夜子と二人で街のコーヒーショップ、祐樹は塾と、珍しく森繁牧場に行くのは自分ひとりだった。
懐かしい、と思う。最近は祐樹や真理、果ては箕郷の三人の誰かと一緒なので、一人は久しぶりだった。
一人も、いいものだと思う。最近は周りが騒がしくて、どうもゆっくり出来ない。
でも、悪くも、無い。色々なことを知って、色々な事を経験して、色々な事が変わった。
でも、嫌な事も、あった。
孝治。
変な、人。優しくて、強くて、どこか間抜けで、凄くて、温かい人。色々な事を知っていて、やってきて、それでも挫折してきた、大人。
自分でも、孝治をどう思っているかなんて、わからない。孝治が優しくしてくれれば嬉しいし、困らせると、少しだけ、楽しい。
ずっと、こんな生活が続けばいいな、と思っていた。
そう、思っていたのだ。
夕闇に揺れ、紅く染まったレストランの中。
「はる、み?」
ボックス席で、向かい合って身体を抱き、加奈の頭を撫でている孝治の姿を見て――――――――
自分の中の「何か」が、弾けた。
「そろそろ、誰か来る頃かな」
夕闇が西の空を染め始める頃。牧場の仕事を終えた孝治は、夕方の開店時間前の仕込みを、レストランでしていた。
加奈にも手伝ってもらい、準備は終わっている。一時間ぐらいの休憩時間が出来た孝治は、入り口に立てかけてある札を眺めながら、呟いた。
「つっても、今日は祐樹君が塾だって言うし、誰も来なかったりしてな。ハハハ」
軽快に笑う孝治に向かって。
「兄は、どうして笑えるのですか?」
加奈の突然すぎる声が、響いた。
一気に怪訝な表情を深めた孝治。キッチンの奥から出てきた加奈は、ゆっくりと孝治に近付きながら、言葉を紡ぐ。
「笑えるんです、ね」
「あ? ど、如何したんだ? 加奈?」
加奈が何を言い出しているのか、孝治には分からなかった。
唯一つ分かるのは、加奈が少し怒りの感情を抱いている、と言う事。何故怒りを抱いているのか分からない孝治へ、加奈は歩みを進める。
ゆっくりと、それでも、確かに。
「今の生活は、本当に楽しいです」
加奈の言葉が、紡がれる。ゆっくりと出た言葉は、孝治も素直に嬉しい言葉だったが、なぜか、其れを口に出来なかった。
加奈の言葉は、続く。
「動物達はかわいいですし、思ったよりも清潔です。兄はいつもどおりですし、誠さんも、嫌いではありません」
緩やかな歩みで、加奈は孝治の前に、立った。
「だから、嫌です」
「へ?」
孝治が、何かを言うよりも早く―――――。
加奈の顔が、すぐそこに在った。
押し、倒される。軽い重みを感じながら、背中の衝撃に眼を反転させていると、声が響く。
「兄が居なくなってから好調なのが、嫌」
気がつけば、加奈の長い髪が孝治の顔に掛かっていた。僅かに差し込む夏の日差しで、かすかに顔が隠れる加奈を、見上げた。
「兄が、居ない」
「お、おい、加奈………」
様子が、おかしい。甘えん坊だが、此処まで過剰に接してきた事は、無かった。
「兄。此処で一緒に暮らしましょう」
「………………はい?」
いつも以上に間を取って出てきた言葉は、戸惑いの言葉だった。怪訝な表情を浮かべている孝治に、加奈は体勢を崩さず、言葉を続けた。
「私の貯蓄なら、兄の牧場の地価を全部払えます。そうしたら、ずっと此処で生活できますよ?」
加奈の、提案。彼女の体からほのかに香る良い匂いが、汗と交じり合い、頭が揺らされる。何時の間にか成長している妹にドギマギしている孝治の上で、加奈の言葉が続いた。
「私は、料理はいまひとつですが、他の事はで来ます。HPで公開すれば、此処の宣伝も出来ますし、人手もただです。悪い条件じゃ―――」
「加奈」
孝治の言葉に、加奈の動きが、止まった。
やがて、加奈の潤んだ目が、見えた。僅かに目じりに涙を携えている彼女が、何を考えているのか、孝治には分からなかった。
戸惑う孝治に、加奈が口を開いた。
「あの娘達は、何なんですか?」
「は?」
さらに怪訝な表情を浮かべる孝治。孝治の胸に乗っている加奈の手が小さく握られ、力を持つ。
痛い、と思いながらも、孝治は晴海達のことだと察し、答えた。
「何っていわれても、友達だよ、友達。ま、まぁ、歳は離れているけど――――」
「危険です」
もう片方の手が、孝治の腕を掴む。信じられないほどの力で握りながら、加奈は言葉を紡いだ。
「彼女達は十四歳。兄は二十一。年が違いすぎます。それに、兄を支えられるとは思えません」
「いや、中学生に何を考えているんだ? お前? それに、支えるって。年下に支えられるほど、俺は弱いのか?」
加奈の暴言が始まり、ようやく冷静さを取り戻した孝治が、突っ込みを入れる。冷静に突っ込まれても、加奈の暴走は止まらなかった。
「何時の間にロリコンになっていたかは分かりませんが、私も幼く見えるので何時までも兄の趣味の中にいます。運動もしていますから、体も柔らかい上に、引き締まっています。ですから――――」
「とまれ」
どんどん顔を近づけてくる加奈の頭に向かって、唯一動く頭で、頭突きを食らわせる。流石の加奈も頭を弾き上げてしまい、其の隙をついて孝治は腕を解放―――そのまま、加奈の身体を押し戻す。
そして。
「――――へ?」
真正面から、肩を抱いてやる。
「よしよし」
そのまま、回した腕で頭を撫でてやる。流石に緊張していた加奈の身体も、やがて解れ、静かに体重を乗せてきた。
結局のところ、加奈は寂しかったのだと思う。成人する前に兄である自分とはなれ、自分よりも過酷な環境で、わがままも言えずに仕事をしてきたはずだ。
寂しかった、はずだ。
兄として出来るのは、その寂しさを、少しでも受け止めてやる事。ありのままの彼女を受け止め、悩みを聞いてやり、前へ向けてやる事。
抱きとめたのも、他意はない。昔からこうすれば、加奈は落ち着いたのだ。
それが、間違いだと知るのは、ずっと後。
それで、変わるのは、すぐ後だった。
――――――――――ガシャン。
気がつけば、その音が、響いていた。
音がした方向を見れば、見覚えのある顔が、あった。短く刈り揃えた髪の毛に、いつもの三白眼を大きく見開き、口を放心状態で開いている、少女の姿。
「はる、み?」
―――触れてしまえば、壊れてしまいそうな、精細な人形のような姿。触ったところから崩れ、直そうとして壊し、二度と戻らなくなる危うさ。
その全てが、一気に瓦解した音を、孝治は聞いた。
そして、晴海の小さな姿は、ようやく訪れた闇とヒグラシの鳴き声の嵐に、消えていった。
気付けば空は、暗くなり始めた。
何を、勘違いしていた?
―――――私は、闇。
絶対的な、恐怖の存在。
それは、絶対に触れてはいけない、禁忌。
禁忌とは、忌わしき存在だ。そこかしこに存在するくせに、絶対に触れてはいけない。
何気無く放った言葉が、石の飛礫になる。ナイフになり、相手のもっとも大事なものをズタズタにする。
相手にズタズタにされるぐらいなら、自分でズタズタになる。
傷つくぐらいなら、近付かない。嫌われるぐらいなら、好きになんかなりたくない。
悲しい別れが来るぐらいなら、出会いたくない。
別れるぐらいなら――――――――
―――――私は、闇。
温かさなんて、ひと時の些細な間違い。気の迷い。
私は、家族から捨てられ、学校から捨てられ、社会から捨てられ、人から捨てられた存在。
私を笑わせるのも、褒めるのも、叱るのも、楽しませるのも、その人の性格以外の何物でもない。
彼は、私を求めていない。
――――――――ワタシハ、ヤミダ。
面白かったら拍手をお願いします。