森繁という名前は、親族の中でも特別な意味を持って、使われていた。

 同族経営。古いしきたりだと思われるが、金に癒着している人物も多くないし、何より苗字が『森繁』でなくても、そう呼ばれることがあるのだ。

 そして『柳市』に、もう1人――――森繁が現れたのだった。

 

 

 

 九月 三日。

 

 レストラン開業日。

 孝治としても節目を迎えるこの日だが、晴海に祐樹、真理や箕郷、誠など時間帯が取れない、との事で、夕方に相成った。

 基本的には朝の六時から九時までの三時間、十一時から十三時、十五時から二十時と三回に分けて営業する事になっている。材料を仕入れた分だけ営業するので、前日からの準備が大変だ。

 とはいえ、牧場の仕事もあるので、どうしても夜遅くまで起きていて、朝早く活動しなければいけなくなる。最悪朝御飯の時間帯を潰すつもりではいるが、まだ試験営業の段階だから、問題は無かった。

 と言うわけで、孝治は朝のうちに、市場の登録に向かっていた。

 

 

 夕方。

 晴海と箕郷は『柳市』中央街で、真理の部活が終わるのを待つことになっていた。その二人の近くには祐樹の姿も在り、その顔は若干、疲れている様子を感じさせた。

 学校で晴海と箕郷の評判が変わって以来、祐樹に対する同級生の(特に男子)風当たりが強くなったのだ。仲が悪くなったわけではないのだが、見慣れない男子生徒に因縁をつけられたりしたのだ。

 その度に迎撃しているのが、箕郷本人。彼女としては、知らず内に仲間に入れられてむしゃくしゃしているところに、仲間内の祐樹が巻き込まれたから暴れただけなのだが、其れがさらに噂に拍車を掛けることになっていた。

 と、いう訳で、何かと不憫な扱いを受けていた祐樹は、前の二人をぼうっと見ていた。

 箕郷と晴海は、駅前のクレープ屋で買ったクレープを食べている。仲が良いな、と思いながら、自分が買ったイチゴチョコクレープを食べた。

 ちなみに、晴海はバナナチョコクレープ、箕郷はコーヒークレープを食べている。

 二人の話題は、軍隊の事。知識が豊富な箕郷の話を、知識欲が旺盛な晴海が興味津々な表情で聞いている関係だ。

 とはいえ、祐樹自身今の立場が嫌いではない。

 駅前の広場で、祐樹も混ざって話をしていると、駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。それが真理だということに気がつくのは、数秒後。

「皆ごっめ〜〜んッ! さ、早くいこ♪」

 顔に泥をつけて、それでも嬉しそうに笑顔を振りまく真理。部活帰りの格好のままで、スパイクだけ履き替えた彼女が駆け寄ってくる。

 其の彼女を見て、箕郷は苦笑し、鞄を漁った。中からフェイスペーパーを引っ張り出すと、真理へ放った。

 其れを受け取った真理へ、荷物を持って立ち上がった箕郷が、口を開く。

「其れで顔拭いとけ。あと、制汗剤も買っとけよ?」

「うん」

 頷く真理を見て、箕郷が口を開いた。

「んじゃ、飯食いに行くか!」

 箕郷の言葉に、全員が頷いた。

 

 

 

――――仲良く、巧く廻る歯車。

「楽しみだね♪ ちゃんとお金持ってきた?」

「当たり前。………祐樹」

「え!? 僕!?」

――――元々外れていた歯車が、森繁 孝治という基盤で巧くはまり、クルクルと軽快に廻り出していたのだ。

「へぇ、お前の親も来るのか?」

「うん! えへへ。お母さん、コーチを信頼しているんだよ」

「五十六もくる」

――――それぞれ、元々は違う歯車。巧く廻ったとしても、其れは本来、そこにあるべき場所ではない。

「僕は、今日は定食が良いな」

「洋食オンリーだろ?」

「孝治は、和食も美味い」

――――そして本来、其の場所にあるべき歯車が現れた時。

「あれ? あれ、コーチじゃない?」

「本当………。それに、キャンプカー?」

「んだ? あの女?」

――――本来の、「家族」が現れた場合。

 ――――歯車はすぐに。

  ―――――外れるのだ。

 

 

 女性が孝治に、抱きついていたのだ。

 

 

 

「やめい」

 ゴキン、と、その女性の首が歪む。首をさすりながら、睨み返す女性に、呆れるように息を吐く男性―――誠。

 いつも見たことが無い、異質な輪。その中心に居る男が、手を挙げた。

「お、お前ら、いらっしゃい」

 ―――――いつもの顔が、少し違って見えた。

 

 

 

 孝治は、駅から出たところで息を吐いた。やれやれ、と首を横に振りながら、顔を戒めた。電車の中で思わず眠ってしまったが、流石に睡眠時間が短すぎるだろうか。

 とはいえ、と首を左右に振る。少し寝ただけで頭がすっきりするのだから、今後は仮眠を多くとればいいのだ。

「これで、レストランの目処は立った、か」

 そういいながら、道を歩き出す。『柳市』の中心にある駅から牧場までそれなりの時間が掛かるが、脚がない孝治としては、歩いて行くしかない。

 学校が始まり、牧場はすぐに静かになった。当たり前とはいえ、夕方の静けさは、どこかなれないものを感じる。

 思えば、多くの時間を子供達と過ごしてきた気がする。年の離れた友達、というよりは、面倒を見ている親戚の子供と言った感じだ。慕ってくれるだけ、マシだと思っておこう。

「しっかし、暑い、な」

 太陽の光がコンクリートを白く染め上げ、風景を歪ませる。真昼間の中心街とはいえ、この暑さでは人影がほとんど無かった。

「ん?」

 そこで、ふと横に視線が向いた。視線の先には、駅のホームに降り立った一人の女性が、駅前の案内板を見上げて立ち尽くしていたのだ。

 声をかけようか、とも思ったが、手には小さなディスプレイが握られているのを見て、やめた。

(ナビ機能付きのモバイルか。………なんか、浮いた感じだよな)

 そんなことを考えて、歩き出そうとした時だった。

「………兄(けい)?」

「ん?」

 ふと、其の言葉に孝治が脚を止める。聞き覚えのある声に、自分をそう呼ぶ存在を思い出したのだ。

 そして、視線を向けた先には、白い存在がいた。

 白い日除け帽に、白のワンピース。夏の過激な日差しを明るく反射する其の服を着ていた女性は、そのつぶらな瞳を、まっすぐと向けていた。

 そして、其の人物を、孝治は知っていた。

「加奈?」

「ああ、兄………」

 顔が、やさしく綻ぶ。警戒心なく、全幅の信頼を寄せる表情で歩み寄って着た彼女は、帽子を外した。

 風に流れる、亜麻色の粒子。黒真珠のように輝く瞳に、しっかりと描かれたような眉毛が、人形のように整った顔立ちを醸し出す。

その女性は、優しい笑顔を向けると、ゆっくりと頭を下げ、口を動かした。

「お久しぶりです。兄」

「お、おお、おお! 久しぶりだな! 加奈! すっかり大人になって!」

 孝治の言葉に、彼女―――加奈は微笑む。

「本当に、お久しぶりですね。専門生の頃から、兄とは離れていましたから」

 加奈と会うのは、かれこれ二年ぶりだった。歳が一つ離れているので、今は大学生だった。

 大学に受かった、という話は聞いていたので、今は休みのようだ。久しぶりの妹との再会に、孝治も顔を綻ばせる。

 そこで、彼女が大きめの鞄を両手で持っていることに気がついた。其れを指差しながら、口を開く。

「お前、その荷物………」

 その孝治の言葉に、彼女は朗らかに微笑むと、口を開いた。

「大学が休みなので、お手伝いに来ました」

 出て来た言葉は、問題発言だった。

 

 

 森繁 加奈は、天才だった。

 特にIT分野での才能は目覚しく、企業のM&A、ソーシャルネットワークの構築、プログラミングの基礎まで彼女が作ったほどだ。大学生の身ながら、名誉顧問の役職についていることも、知っている。

 其の彼女が最近、働かなくなったと言う話を、誠から聞いていた孝治は、自分の片手で揺れている荷物を眺めながら、口を開いた。

「んで? 妹様はどうして牧場なんかに?」

 牧場までタクシーで帰るわけにも行かず、孝治が荷物を持って歩いて帰ることになった。重そうな荷物を片手で担ぐ孝治へ、横を優雅に歩く加奈が答えた。

「ふふふ。兄の牧場が見たいんです。それに、篭ってばかりでは、身体に悪いですから」

 口元を手で隠し、嬉しそうに笑う加奈。その加奈を眺めながら、孝治は眉を潜めた。

「でも、お前、体は大丈夫なのか?」

 加奈は、昔から身体が弱い。病気と言うわけではないが、虚弱体質なのだ。

 それでも、加奈は両腕を曲げると、答えた。

「大丈夫です。これでも、体は鍛えているのですよ?」

 孝治の言葉に、嬉しそうに答える加奈。その言葉を聞いて、孝治は大きくため息を吐いた。

「それでも倒れるから心配しているんだろうが………」

 孝治の困った顔を見ても、加奈は嬉しそうに笑った。昔から、一緒にいるときはこうやって笑うことが多かったな、などと思いながら、孝治は話題を変えた。

「どうだ、最近? 彼氏とか出来ないのか?」

 孝治の言葉に、彼女は少しだけ困ったような表情を見せ、口を開いた。

「最近は、仕事が面白くありません。彼氏はいませんね」

 其の言葉に、孝治はへぇ、と感心したような声をあげた。

 言ってはなんだが、加奈は美人だ。誠からはちょくちょくそんな内容の話を聞いていたし、何より妹の事が心配なのだ。

 その心境を知ってか知らずか、加奈は微笑む。その顔を見ながら、孝治は小さく頷きながら、答えた。

「そうなのか。お前なんかは可愛いから、すぐに出来ると思ったんだけどな」

「ふふふ。兄がいますから」

 嬉しそうに笑う加奈に、孝治は申し訳ない表情を浮かべた。

 恐らく、兄である自分に彼女がいないから彼氏を作らないのだろう、と判断している孝治。だが、加奈は笑顔のまま孝治の空いている腕に手を絡ませた。

 流石の孝治も、苦笑する。

「おいおい、もう甘える歳でもないだろうが」

「ふふふ。兄に甘えられるのは妹の特権ですから」

 そういいながら身を寄せる妹に、孝治は苦笑することしか出来なかった。

 やがて、牧場が見えてくると―――――

 

「うわぁ………」

 

 そんな感嘆の息が、横から漏れた。ついで、視界の隅から中心に向かって走って行く加奈の姿が在り、それは牧草地まで行くと、動きを止めた。

 深呼吸。其れをした彼女は、振り返りつつ叫んだ。

「凄い! 凄いです!」

「おう、ありがとうな」

 はしゃぎまわる加奈を置いて、孝治はとりあえず自分の家のほうに荷物を持って行く。

家の中に入りながら、一考する。開いている部屋が一つあるから、寝る場所には困らないが、布団がない。しばらく寝袋で寝るか、と考えた孝治へ、声が掛けられた。

「兄、何か手伝う事は?」

「うおっ!?」

 何時の間にか、真後ろに立っていた加奈に孝治が驚く。其の孝治を見てクスクスと笑う加奈は、孝治から鞄を預かると、奥の部屋に向かって歩き出す。

 其の扉に身体を隠すと、ちょろっと舌を出して、告げた。

「覗いたら、責任とって貰いますからね」

「覗くか!」

 孝治の言葉を聞いて、加奈は満足げに部屋にはいっていった。

 孝治が自分の部屋の布団を干している頃に、加奈が出てきた。

 着ているのは、ツナギと帽子、そして軍手だった。自分なりに用意してきた、という服に着替えた加奈は、孝治のところに歩み寄ると、口を開く。

「それで、何をしましょうか?」

 此処までくると、加奈の本気が分かる。そして、自分に似て頑固な妹の事を知っている孝治は、そのまま視線を横に向けると、口を開いた。

「なら、牛舎を片付けるか。行くぞ」

「はい」

 加奈は満面の笑顔で、頷いた。

 

 

 

 

「ニオイは酷いですね」

「それでも平然としているお前が凄い」

 かなりの悪臭になる糞の処理だが、加奈は感想を言っただけで、いやそうな表情を一つもせず、処理していった。トウキビとモロコシにもすぐに慣れ、ブラシまで丁寧にこなしている。

 ま行の羊達の世話もたいしたもので、ハサミで羊毛を整えるのも、手馴れている感じを受けた。

「羊毛の品質はいまひとつですが、小さな織物だけでしたら、兄のレストランにも置けるのでは? あまり高くしなくていいのですから、売れるかもしれませんよ?」

 加奈の提案に、孝治は素直に感心した。

「そんなこと、考えても見なかったな。そりゃ、確かにいいかもな!」

「先程、倉庫を見てきましたが、手織機も置いてありましたし、よければ私が編みますよ?」

 加奈の申し出に、孝治は首を横に振った。

「あの機械は、もう壊れててな。修復するにも、パーツが欠けてて分からないんだ。せめて、設計図でもあれば………」

 孝治の言葉に、加奈は手を止めずに言った。

「だったら、私が復元させますよ。兄は忘れているかもしれませんが、私、そういうのが得意なんですよ?」

 そういって、少しだけ困ったような表情を見せる。小首を少しだけ傾げて、口を開いた。

「作ること以外は、ですが」

 加奈の言葉に、孝治は笑った。そういえば、加奈はパソコンのプログラムを組み立てるのは得意だが、パソコンそのものを作る事は出来なかったはずだ。昔は良く二人でプラモデルや割り箸の家などを作ったものだ。

 一人で作ってもつまらない、というのは加奈の言葉。其れを思い出したとき、加奈は微笑む。

「もう少し、早くここに来ていればよかったです。そうすれば、兄と一緒に創れたのに………」

「―――加奈」

 ふと、加奈が手に持ったハサミを、地面に置いた。そのままメリーの頭を撫でた後、すいっと立ち上がると、孝治に向き直った。

「兄、知っていますか? 一人では、限界があるのですよ」

 ふと、威圧感が身体に触れた。微笑む加奈の顔には、僅かに妖艶な色が滲み出ていた。

 スッと、孝治の腕に手を伸ばす。怪訝な表情を浮かべる孝治の腕を取った加奈は、そのまま静かに孝治の身体へ、自分の身体を寄せた。

 軽い、ふわっとした感触。毀れるように孝治の胸に飛び込んだ加奈は、静かな声音で、告げた。

「兄、私は――――」

 

 

 

「止めろブラコン娘」

 

 

 

 ゴキン、と首が歪んだ。

 振り下ろされたのは、黒革張りのファイル。振り下ろしたのは、ぶっきらぼうな表情を浮かべた誠だった。

 誠は露骨にため息を吐くと、孝治に睨みつけた。うっ、と言葉を詰まらせた孝治に、涙目で頭を抱えている加奈を一瞥した後、告げた。

「お前も何時までも甘えさせんなよ? だからこいつは未だにブラコンなんだよ」

 其の言葉に、今度は加奈が恨みの篭った眼差しで振り向き、驚愕した。

「ま、誠―――さん」

 呼び捨てにしそうになり、慌てて訂正する。涙目で頭をさすりながら、小さな声で聞いた。

「何で、こんなところに?」

 苦手そうなものを隠す様子も無く聞く加奈に、誠は手に持った袋を掲げながら、口を開いた。

「お前がいるからだよ。お前が此処にいると約五名ほど闇に葬られそうなんでね」

「闇?」

 怪訝な表情を浮かべる孝治に、誠はため息を吐くが、明言は避けた。

(直接じゃないとしても、孝治に彼女が出来ない理由の、一人だな)

 とにかく、と誠は首を左右に振った。手に持った荷物をそのまま担ぎなおすと、口を開いた。

「しばらく、俺も滞在するからな」

 

 

「――――というわけだ」

 ボックス席。

 誠と祐樹、対面するように箕郷と真理、晴海が座っている其の場所で、誠は経緯を簡単に説明した。

 仕事での有給休暇が大量に溜まっていたから、全てを取って孝治のところに遊びに来たという事。其の間、孝治と一緒に住むつもりだという事を聞いて、久利から止めて欲しいと要請が来たのだ。

 ちなみに四人は、もう加奈と自己紹介を終えている。簡単な自己紹介で、加奈に嫌悪感を抱くようなものではなかった。

 外に止めてあったキャンプカーは、誠のものらしい。孝治の家で眠れないようなら外のもので寝ようとしていたのだ。

 ただ、孝治の家は思ったよりも広く、レストランには仮眠室もあるので、結局は杞憂に終わったのだった。

「へぇ、ブラコン、ねぇ」

 そういいながら、箕郷はキッチンの奥で孝治と話す加奈を見た。孝治の支持の下、料理の下ごしらえをしている加奈は、見た目は大人しそうで上品だった。

 その気持ちが伝わったのか、誠が言葉を続けた。

「基本的には、人当たりが良くて上品だが、孝治が絡むと精神がおかしくなるんだよ。ま、知っていて対応出来るのは俺ぐらいだから、ここに来たわけだが―――」

 大きくため息を吐き、疲れた様子で言葉を紡げた。

「お前ら、気をつけろよ。好意云々じゃなく、孝治に近付く奴最初の難関が、アイツだからな」

 誠の言葉に、箕郷が眉を潜め、真理が理由の分かっていない様子で、笑った。晴海はもういつもの様子で、本を読んでいる。気にしない三人といえばそうだが、やはり気になるようだ。

 どうやら今日は、知り合いの全員が顔を出してくれるらしいので、宴会になるようだった。

「と、いう訳で宴会は八時から。今は六時だから、ちょっと長いな」

 そういいながら、誠は三人に視線を向ける。ニヤニヤした表情を浮かべながら、口を開いた。

「手持ち無沙汰か?」

「ンな訳ねぇだろ」

 ハン、と鼻を鳴らす箕郷。それに同意するように頷く二人を見て、誠は笑みを深めた。

「いつもだったら、箕郷、お前はコーヒーでしつこく孝治に文句言ってるだろ? 真理は纏わり付いているはずだし、晴海は料理でも手伝う筈だ」

 誠の言葉に、三人の動きがピタッと止まる。ニヤニヤするのを深めた誠へ、今度は祐樹が声をかけた。

「でも、仲が良さそうですね」

 見てみると、厨房で加奈が何かを間違えたのか、孝治に怒られていた。静かな怒りでは在ったが、孝治に怒られている間加奈は、少しだけ嬉しそうだった。

 其の様子を見ながら、誠は頷く。

「ま、心の奥から信頼しあっている兄妹では、あるな。妹の片恋慕が酷かったけどな」

 そう、締めくくった時、レストランの扉が開いた。

「おう、孝治! 来てやったぞ!」

「失礼します」

 レストランの開いた扉から入ってきたのは、五十六と茜だった。五十六は祝い酒を手に持って、茜は祝いの品を持って現れた。

 作業着の五十六は、厨房から出てきた孝治に視線を向けると、手を挙げた。それに答えた孝治は、そのまま厨房から出て、頭を下げる。

「ほれ、祝い酒だ。今日は飲むぞ!」

「あ、私はつまらないものですけど、粗品です。お花は、ほら、以前に贈ったので、重なると如何かな? って思いまして」

「あ、有難うございます、二人とも」

感謝をしながら、渡されたものを受け取る。

茜は、簡単なシャツにジーパンと言う、彼女にしては珍しいラフな格好だった。意外そうな孝治の視線に、茜ははにかむ様な笑顔を浮かべ、答えた。

「あ、あの、お手伝いを、って思ったんですけど、必要なかったみたいですね? 恋人さんですか?」

 そういいながら、奥の加奈を盗み見る茜。その茜の様子を見て、声をかけたのは五十六だった。

「ありゃ、妹の加奈だ。ったく、森繁本家の人間は、気まぐれで仕方ねぇ」

 誠以外では唯一面識がある五十六だったが、良い顔はしなかった。思えば仲が悪かったなァ、等と思いだしていると、茜が納得したように声をあげた。

「あ、妹さんでしたか」

「ええ、夏休みと表して手伝いに。ほれ、加奈、挨拶だ」

 孝治に呼び出され、加奈が厨房から出てきた。茜と五十六を見て、一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに微笑むと頭を下げる。

「始めまして。五十六さんはお久しぶりです。森繁 加奈です」

 丁寧に自己紹介をする加奈に、自己紹介を返す茜。その二人のやり取りを見届けた後、五十六が声をかけた。

「久しいな。まぁ、お前ならなんとか上手くやっていけると思うけど、暴れんなよ?」

「ふふ、何時の話ですか? それ」

 やんわりと会話を続ける二人を見ながら、孝治は手を挙げた。視線を一身に受けた孝治は、加奈に声をかけた。

「下ごしらえも準備も終わったし、後はゆっくりしてくれ。疲れただろ?」

「あ、ああ、有難う、兄。優しさが身に染みます」

 そういい、身を寄せようとする加奈―――その首根っこを、五十六のごつごつした手が掴んだ。

「お前は、おじさんと愉しい会話だ。近況を聞かせてもらおうか」

「い、五十六さん」

 加奈を引きずり、晴海達に挨拶しながら奥のボックス席に引っ込む五十六と加奈。それについて行くように誠も席を立ち、茜へ席を勧めた。

「お〜〜い、孝治。コーヒーをくれ」

 箕郷の声が響き、孝治は苦笑した。厨房の奥に引っ込み、抽出したコーヒーの原液をコップに注いでいると、厨房に影が現れた。

「コーチ! 聞いてよ! 私ね、今度サッカーのレギュラーで出れるんだよ!」

 入って来たのは、未だにユニフォーム姿の真理だった。本当は、来た時に一番報告したかった事らしく、満面の笑顔を浮かべている。

 その真理を見て、孝治も感心した。駆け寄ってきた真理の頭を撫でつけながら、もう片方の手でタオルを手繰り寄せた。

「良かったじゃないか。ほれ、大人しくしてろ」

 綺麗なタオルで、真理の顔を拭いてやる。輪郭を描くように流れた汗と、まだ少し残っていた土まで拭ってやる。

 驚いた表情を浮かべたのは、真理だった。キョトン、とした顔で孝治を見上げ、大きな双眸がジッと捉えている。

 そして、その顔が綻ぶ。いつもの、元気な笑顔を浮かべると、孝治に飛びついてきた。

「お、おい!」

「へへへ♪ コーチはこうじゃないとね!」

 そういいながら、嬉しそうに笑う真理に、孝治は苦笑しながら降ろす。それでも微笑みながら纏わり付く真理に苦笑しながら、孝治は箕郷のコーヒーを淹れた。

 真理を首にぶら下げながら、孝治は箕郷にコーヒーを運ぶ。テーブルまでもってきたところで、呆れたようなため息が響いた。

「ったく、お前もいつまで経っても餓鬼だな」

 呆れたようにため息を吐きながら、コーヒーに口をつける箕郷。疲れた孝治は、一行の反対側にあるボックス席に座ると、息を吐いた。

 思えば、朝からずっと働き詰めだったと思う。先程乗っかってきた真理のせいで、首まで痛くなっている気がした。

 ふと、目の前に誰かが立っている事に気がつく。誰だ、と顔をあげると、見慣れた三白眼が、見下ろしていた。

「………疲れた?」

「ああ、流石に、な」

 其の言葉を交わした後、晴海は孝治の横を通り過ぎ、ボックス席に登る。孝治の両肩に手を添えると、ぎこちない手つきで揉みだした。

「お? おお? おおお?」

「………どう?」

 ぎこちなく、あまり握力が無い晴海だが、孝治の肩が張っていることはわかった。其れを優しく揉み解す晴海に、孝治の相好が崩れた。

 時々、肘を使って肩のつぼを刺激する。恐らく、本の知識を使っての行動なのだろうが、労われる事が少ない孝治にとって、それは嬉しいものだった。

「………森繁。見せ付けるな」

「うおっ!?」

「!!!???」

 突然、後ろから衝撃が走る。孝治の頭をそのまま抱きかかえてきたのは、驚きの声をあげた晴海であり、其れに押し出されるように孝治は席を立った。

「………むつみさん」

「ご相伴を授かりに来たぞ」

 むつみはあろう事か、晴海の後ろにある窓から侵入してきたのだ。ビシッと手を挙げ、挨拶したむつみは、大きな風呂敷を引っ張り出し、レストランに入り込む。

 その風呂敷を差し出しながら、むつみは口を開いた。

「開業祝だ。もっていけ」

「おお、野菜―――ほれ、晴海。そろそろ降りろよ。震えるなって。幽霊じゃないから」

 未だに震えが伝わるほど脅えている晴海を宥めて、孝治は降ろす。何時までも頭にしがみ付かれても、首が折れてしまうだろう。

 その時だった。

「母さん! ちゃんと入り口から入ってきてよ!」

 そんな声が、響いた。

 入り口に居たのは、晴海達と同じ学校の制服を着た、少女だった。メガネをかけた其の眼は怒りに染まり、肩まで伸ばした髪が揺れる。

 気の強そうな少女は、むつみの所まで詰め寄ると、叫んだ。

「まったく! 無理やり連れて来たのに、粗相を働かないでよ!」

 そう叫んだところで、彼女は孝治を見て止まった。顔を真っ赤にすると、慌てた様子で佇まいを直し、頭を下げた。

「あ、すみません。えっと、森繁 孝治さんですよね? 私は、飯井 小夜子です」

 しっかりした子だな、と思いながら、孝治は挨拶を返す。

「あ、こりゃご丁寧に。話を聞くには、箕郷の後輩だそうで」

 聞いていたのは、箕郷の後輩であり、今は一年生だということぐらいだ。仲が良いのか、箕郷の名前が出たところで、彼女は初めて相好を崩した。

「はい。って、箕郷先輩。私を呼ぶのでしたら、場所を教えてくださいよ」

「へ。まぁ、これでも飲めよ。上手いから」

 ブツブツ何かを言っているようだったが、彼女は晴海の座っていた場所に座ると、箕郷の出したコーヒーに口をつけた。

 そこで、気難しい表情が、崩れた。

「美味しい………」

「お前なら分かってくれると思ったよ!」

 小夜子の言葉に、箕郷が嬉しそうに肩を叩く。その先輩の姿に眉を潜めつつも、小夜子は孝治に視線を向けた。

 不意に、小さく微笑む。コーヒーカップを軽く持ち上げながら、小夜子は口を開いた。

「やりますね」

「おうよ」

 不敵に微笑み返した孝治。軽く手を挙げた孝治は、「新しいものを淹れるよ」と断りを入れて、席を外した。

 そこで、小夜子に箕郷が顔を寄せる。ニヤニヤとした表情を隠しもせず、口を開いた。

「なんだ? 惚れたのか?」

 その箕郷の言葉に、小夜子はさらっと答えた。

「いえ。母が興味を持った人物と言うことなので」

 微塵も同様を見せずに言い切る小夜子に、箕郷は苦笑していた。

 と、其の時、外からいくつかの車の音が鳴り響いた。静かな駆動音と光は、多くが牧場の入り口のほうで旋回し、止まって行く。

 怪訝な表情を浮かべた時だった。

 

「「「「「孝治! 開店おめでとう!」」」」」

 

 レストランの扉を開けて入ってきたのは、孝治と同じ位の年の男女十一人。それぞれが祝いの品と花束を抱え、レストランの中に入ってきたのだ。

「えッ!? 皆!?」

 様々な格好をしていた人達が、孝治に近寄る。其の一行の様子を見ていた晴海達に、戻ってきた誠が口を開いた。

「全員、孝治の行ってた調理学校の奴らだよ。流通の手伝いやら仕事やらあるけど、皆、孝治のことが心配だっただけだよ」

 同僚にもみくちゃにされている孝治は、戸惑っているようだった。その一行は、座っていた晴海や真理、箕郷に祐樹まで巻き込みながら、騒ぎ出す。

「お、君達は?」

「え? 孝治君! 子供にまで手を出したの!?」

「んなわけあるか!」

「おいおい、誠。お前もこっち来いよ!」

「あ、はじめまして。麗しいお嬢様。どうかお名前を教えてもらえませんか?」

「あ。あ、あの、茜です」

「あああああああ! 加奈まで居る!」

「あ、この男の子可愛い♪」

「あ、ちょ、何処触っているんですか!?」

 騒然と、レストランが騒がしくなる。急に切り替わった店内の空気で、晴海が混乱していると、不意に手が引かれた。

 ふわっと、身体が浮かぶ。ついで置かれたのは、誰かの頭の後ろ―――孝治だった。

 眼を回している晴海を見つけ、孝治が助けたのだ。一気に注目が集る中、孝治が叫ぶ。

「よっし! 宴会だ!」

「「「「「「「「「お〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!♪」」」」」」」」」」

 其の日、レストランだけではなく森繁牧場で最も騒がしい夜が、幕を明けた。

 それでも、それでも。

 見知らぬ人達の中心で、それでも笑える子供達にも、変化が訪れようとしていた。

 

 

 

 

 加奈という「妹」の存在。

 其れが、僅かに歯車を、軋ませていた。

 

 

 

 


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