九月 二日。

 

 二学期が始まった。

 いつもどおりの登校。ひと夏越えて変わった人間、変わらなかった人間それぞれいるが、晴海は特に気がつく事無く、いつもどおりに登校していた。

 中学校に近付いた時だった。

「やっほおぅい! 晴海っちっ!」

 元気いっぱいの挨拶に、晴海は視線をそちらに向けた。

 肩からショルダーバックを提げ、自分の相棒であるサッカーボールを蹴りながら現れたのは、真理だった。ボール入れの中にボールを入れながら、いつもよりも上機嫌な表情で手を振ってきた。

「えへへ。おはよう♪」

「………おはよう」

 偉く上機嫌なのは気になるが、何となく聞かないほうがいいような気がした晴海は、気にせず昇降口に向かう。其の晴海の横に着きながら、真理は笑顔で告げた。

「晴海っちのお陰で、今回は宿題もばっちりだしね! もう補習も恐くない!」

 真理らしい、と思う。サッカーが大好きなのは知っているが、そのために学校に来ているような真理にとって、補習は敵以外の何物でもないのだろう。

「昨日のドラマ見た? あ、見てない? 結構面白かったんだよ」

「………そう」

 そっけない晴海の物言いだが、こうやって話すだけでもかなりの進歩だった。以前の彼女なら、誰かと話しながら登校なんてしなかっただろう。

「でも、コーチのレストランも明日で開業だね! うわぁ! とっても楽しみ!」

「そう、だね」

 真理だけではなく、実は晴海も楽しみである。

 今日のお昼には最後の保健所の指導と研修を終え、孝治はレストランの最終準備に入るのだ。野菜は、例のむつみから入るまで、五十六じいさんから貰うらしい。

 素材にこだわる孝治を思い出し、少しだけ微笑む。其の晴海を見て、真理も笑った。

「楽しみだね♪」

「………うん」

 ただ、西の空には雲が生まれだしていた。

 

 

 

 其の日から授業だったが、【孤独姫】の行動は変わらない。授業中でも本を読み、先生と生徒は気にした様子もなく、授業を続ける。

 しかし、少しだけ変わった場所が、あった。

 休み時間。

「おぃ〜っす、邪魔するぜぇ」

 そう男勝りな声が響き、扉が開く。そこから教室には言ってきたのは、梅澤 箕郷――――彼女は周りを見渡すと、目的の人物を見つける。

「悪いね。ここ、借りるぜ?」

「あ、ああ」

 晴海の横に座っている男子生徒から了承を得て、箕郷は椅子を引っ張り出し、晴海の机の横に座る。椅子を反対にして座った箕郷は、晴海を覗き込んだ。

 晴海は、きょとんとした顔を向けていた。その表情を見たクラスにどよめきが走るが、箕郷は気にした様子もなく、手に持った雑誌を広げると、口を開いた。

「どうだ、このナイフ! 米軍が開発した奴をこの会社がカスタマイズした奴なんだけどよ。かっこいいだろ?」

「………そう」

 晴海の言葉はいつもどおりだったが、態度が違った。三郷の持って着た雑誌を、興味深そうに見ているのだ。

 その晴海の態度に気を良くしたのか、箕郷は満面の笑みを浮かべ、腕を組んで続けた。

「そうだろそうだろ! 孝治の奴もこの間これを買えばよかったんだよ。あ、あとよ、その次のページのナイフが、また格好良くて――――」

 其の時、また扉が開いた。それに続くように「失礼しま〜す!」と元気な声が響き、また誰かが入ってきた。

 入って来たのは、真理。彼女は、手に何か袋を持って、入ってきたのだ。

「晴海っち! 購買に面白そうなパンが売ってたんだけど、一緒に食べない?」

 その言葉に反応したのは、箕郷だった。

「お、パンか。私にもくれよ」

「あ、箕郷っちも。いいよ♪」

 そういい、袋の中からパンを取り出し、手渡す。其れを受け取った箕郷は、軽い感謝の言葉を返すと、パンを二つにちぎり、片方を自分へ、もう片方を晴海の口に押し込んだ。

「もがもご」

「お、お前も分かるか! そうそう、このナイフは重心が凄くてな!」

「え、何の話!? うわ、格好いい!」

 箕郷の上に乗っかった真理が、話に入ってくる。その真理を邪魔そうに追い払う箕郷と、未だに雑誌を眺める晴海。

 その三人を見て。

『………』

 クラスが、絶句していた。

 しかし、それだけで終わるわけがない。

 箕郷がふと横に視線を向けると、一気に表情を変え、手を招いた。

「おい、祐樹! お前もこっちに来いよ!」

 ざわっと、教室が騒然となる。その空気を感じつつも、祐樹は座っていた席から立つと、三人に近付いていった。

「あ、祐樹君だ♪」

「………」

 真理の嬉しそうな表情と、晴海の視線を受けていた祐樹の首を、箕郷が腕でがっしりと掴む。晴海の見ていた雑誌を空いていた手で取り上げると、祐樹の顔に向けた。

「御前は如何思うよ? こっちの方がいいと思わないか?」

 教室がさらにざわめく中、祐樹は半分泣きそうになりながら答えた。

「そ、そうだね」

 箕郷の腕から逃げ出した祐樹に、箕郷の代わりに椅子へ座った真理が、声を掛けてきた。

「ねえねえ、祐樹君は昨日のドラマ見た? ほら、サッカー選手の!」

「あ、見たよ。最後の一点はひやひやしたよね?」

 そう返しながら、違う話し声を聞いていた。

「やっぱ、モテモテだな、アイツ。今度闇討ちしようぜ」

「春日は可愛いなァ。くそ、俺なんかサッカー部なのに、話したことすらないぜ!」

「ちょっと、何で瀬戸君が話してるの!?」

「梅澤って、美人だよな。なんていうか、一匹狼みたいな。やっぱ、優等生に憧れるのかね」

「死ね」

 全員違うんだよ、と祐樹は心の中で涙を流しながら、真理と会話していた。彼女達との共通項は森繁牧場であり、自分は悲しい事に、その仲間だということだけなのだ。仲はいいものの、彼女達の興味は、森繁孝治に向かっている。

 悔しい事に、晴海の笑顔を取り戻したのは、孝治だ。しかも人間が出来ているので、祐樹自身も尊敬する人物である。

 

 変わったのは、それだけではない。

 

 カッ、カッ。

 チョークの僅かに欠ける音と共に、黒板から僅かに粉が落ちた。

 黒板に書かれたのは、証明問題の回答。僅かな間違いもなく答えを書き込んだ晴海は、特に何の気負いもなく踵を返すと、机にまで戻っていった。

 晴海を指した数学教師は、苦々しい表情で解説にうつる。席に着いた晴海は、机の上に伏せておいた雑誌を拾い上げると、眼を落とした。

 ヒソヒソと、言葉が聞こえてくる。その内容は聞きなれたものばかりで、気にするような内容もなかった。

 しかし、中には聞こえないほど小さなものもあった。それは、嫌味を言う相手のものとは違って、絶対に聞こえないように発せられるものだった。

 そういえば、と思い、晴海は視線を前に向けた。必死に授業を受けている後頭部―――瀬戸 祐樹の頭を眺めながら、思考した。

(銀河鉄道の夜、孝治の家だ)

 全く関係のないことを思い出しながら、晴海は視線を外に向けた。

 いつもは気にならない、時間の流れ。まだ明るい外だが、確実に夕方に向かって行く世界で、【孤独姫】は、僅かに微笑む。

 

彼女は今、確かに笑った。

 

 別に、【孤独姫】というのは嫌味だけで付けられた言葉では、ない。姫という言葉がつくほど、晴海が可憐だという理由も、あるのだ。

 そこに、天真爛漫で、老若男女問わず学校で人気の高い真理。

その大人びた雰囲気と猫のような性格、そして日本人離れした風貌から隠れファンが多い箕郷が集れば、否が応でも視線が集る。

 故に。

「………なんか、今日このクラス、華々しいよな?」

「っていうか、【孤独姫】があんな風に笑ったの、始めてみたぞ?」

「やべ、可愛いかも」

「箕郷が学校に来ているッつうだけでも驚きだぜ」

 そんな男子の話し声は、当事者達には届かなかった。

 だから。

「あ、祐樹君! 今日サッカーの部活がないんだ! 一緒に帰ろう!」

「祐樹、お前も一緒に行くんだろ? 早く行こうぜ」

「………」

 教室の入り口で、その三人に急かされる祐樹へ、クラス中の男子から敵愾心むき出しの視線が突き刺さるのも、祐樹本人以外、知らないのだ。

「………」

 だから祐樹は、心の涙を流した。

 

 

 

 孝治は、またこの場所に来ていた。

 地図では、『柳市』の外れ、森の入り口にある、小さな丘。その上にある小さな一軒家に、孝治の目的の人物である飯井 むつみが住んでいた。

 いつも、家の扉が開いた瞬間に、記憶が途絶える。一撃の元に沈むような弱い男だとは思っていなかったが、何回も倒されていると、流石にへこんでしまう。

 深呼吸をし、神経を集中する。相手は、恐らく出会った人物の中で最強の存在なのだ、と考えた。

 覚悟すれば、見え方が変わってくる。入り口は、家屋の中に一歩踏み込むような形に成っており、後ろは完全に死角だ。

(よく考えれば、意識がなくなるという事が不自然なんだよな)

 顔を何発か殴られようが、孝治はそれで失神するような柔な身体をしていない。殴られている記憶がない、と言う事は――――。

 扉のチャイムを、押そうとした瞬間。

 

 頭を、下げた。

 

 ブン、という音と共に、何かがかすめる。其れを確認する間もなく、体勢を低くしたまま片足を、後ろに低く薙ぎ払う。

 影が、其れを避ける。それを確認するよりも早く、距離を取ろうとして。

「!」

 脚をつかまれ、引っ張りあげられる。体勢を崩し、辛うじて踏みとどまっていた右足を、蹴り払われた。

 体勢を崩し、地面に倒れこむと同時に、もう片方の足が反対のほうに無理やり持っていかれることに、気がつく。持ったまま回り込む気なのだと判断した孝治は、両手を無理やり地面に、つけた。

「!」

 驚いたのは、影のほうだった。ビタっと止まった脚に戸惑うよりも早く、腕の力だけで左足を、薙ぎ払う。

 かすかに何かへ触れるが、それが何か確認できない。バッと体勢を立て直した孝治が振り返った先には、何もいなかった。

「動くな」

 其の言葉と共に、首元に冷たいものが触れた。其れが人の手だと確信できるのに、そう時間は掛からなかった。

「何度もうちに来ているようだけど、何者か?」

 初めて聞く其の声は、鈴のような細い声だった。後ろを見たいが、首に回された手が、動いた瞬間に何かされそうな気がしたのだ。

「あ、えっと、飯井 むつみさんですか?」

「そう」

 小さな、か細い声。其れを聞いた孝治は、意を決すると、口を開いた。

「お、わ、自分は、そこの山の麓で牧場をやっている、森繁 孝治というものです。あ、あの、五十六じいさんから、野菜をいただきまして、その、実に素晴らしい野菜だと思いまして、その、レストランで是非使わせてもらえないかと」

 無言。伝えるべき事は伝えた孝治は、もう相手の出方を待つしかなかった。

「………森繁」

「え?」

 其の言葉に、孝治は疑問符を浮かべた。それに答えるように、其の手が離された。

 振り返った先には、1人の女性がいた。

普通の人よりも色素の薄い髪の毛に、白い肌は和風人形のものよりも白い。それでも気の強そうな眼差しとその口に銜えられた煙草は、不思議な魅力を与えていた。

「あそこの、人か。なるほど。不思議な空気を感じる」

 不思議な魅力ではなく、不思議な人だったらしい。屈んでいる孝治に、自分の顔をずいっと近づけると、ニンマリと微笑んだ。

「森繁らしい、良い男だ。んで? レストラン?」

 森繁を知っているらしいむつみの言葉に、若干の興味を覚えながらも、孝治は頷いた。

「あ、はい。牧場では生計が立てられないので、レストランを。野菜代はきちんとお支払いしますので」

「………」

 値踏みするように、むつみは孝治を上から下まで見据える。ニンマリと表情を向けると、再度体勢を立て直した。

「別段、野菜は分けてやっても良い。ただし、一つだけ条件がある」

 むつみの出してきた条件に。

 

「へ?」

 

 孝治は素っ頓狂な声を、返していた。

 

 

 

『んで? 俺に電話か』

「そうなんだよ」

 孝治の自宅、電話を持っている孝治は、電話先の誠に、そう告げた。電話先からはため息が漏れ、続いて声が響く。

『裏山≠フ秘密っていわれても、俺が分かるわけ無いだろうが。この間の研究結果だって、まだ出てないんだぞ?』

 誠の言葉に、孝治も困った表情を浮かべながら、告げた。

「そう言われても、俺には全くわからないしさ。五十六じいさんに電話しても知らないっていうし」

 むつみの出してきた条件は、『裏山≠フ秘密を見つけ出す事』だった。秘密がなんなのかも、なんで裏山なのかも分からない孝治は、藁にもすがる思いで誠に電話したのだ。

 電話口の誠は、小さく唸ると、言葉を発した。

『民話じゃあ、あの山は神隠しにあうって話だな。でも、五十年に一度の割合で、十二年前に一度解決しているんだ。最低でも後三十八年はおきないぞ?』

 誠が追っているものを知っている孝治は、頷きながらも小首を傾げた。

「何となくだけど、その話じゃないような気がするんだよなぁ」

 本当に何となくだが、神隠し≠ナはないような気がした。正確に言うと、神隠し≠サのものではなく、それに類する何かを差している気がするのだ。

 孝治の話を聞いて、電話先で布のすれる音がする。誠が体勢を正した音だ、と気がつくのに、そう時間は掛からなかった。

『………じゃあ、お前はなんだと思うんだ?』

 誠の声に、孝治は眉を潜めた。

(何しているのかわからないけど、いっつもこんなんだよな)

 孝治の勘になると、誠は期待するそぶりを見せる。そういったときは、素直に言葉を発するのが吉だ。

「なんとなく、建物? みたいな感じがしたんだよ。よくわかんないけどな」

『そうか………』

 孝治の言葉に、納得したような雰囲気を見せる誠。しばらく沈黙した後、口を開いた。

『あのよ。今度軍事衛星でお前の土地を監視しようと思ったんだけどな』

「やめれ」

 本気でやりかねない相手に、孝治は半眼で呻く。電話口から軽快な笑い声が響き、再度言葉を発した。

『ま、どっちにしろ長期的な調査になる。お前なら1人でも大丈夫だと思うが、気をつけていけよ』

「了解。何か分かったら、連絡くれ」

 そういい、電話を置いた。ややあって、腕を組みながら小首を傾げる。

「相変わらず変な奴だよな。ま、いいけどよ」

 そういいながら、孝治は机のほうに歩いていった。机の上においてあるのは、三つの額縁、そして其の中には、孝治の調理師免許等のレストラン経営に必要な許可証が、おいてあった。

 ゆっくりと、其れを持つ。生まれて始めて、自分の努力が実ったのがこの調理師免許だったので、今でも感慨深い。

「よし」

 其れを持って、レストランに向かう。入り口左手の、座席と入り口を仕切る場所に、立てかけた。

 丁度、その時だった。

「お邪魔します」

 其の声と共に、レストランの入り口に誰か立っていた。その人物を見て、孝治が声を掛けた。

「茜さん。いらっしゃい」

「まだ、開店前、ですよね?」

 オドオドとした様子で入ってくる茜。白いブラウスに、黒いスカートを履いた彼女は、麦藁帽子を外しながら、頭を下げると、手に持った花束を差し出した。

「少し早いですが、おめでとうございます。これ、開店祝いのお花です」

 其れを受け取りながら、孝治は笑顔で答えた。

「あ、有難うございます。今から飾りますね。………すぐにお茶を出しますから、カウンターへどうぞ」

「あ、はい」

 茜はやんわりと微笑むと、カウンター席に向かう。入り口の近くに置いてあった空の花瓶を片手で持つと、孝治はキッチンに入っていった。水道で水を入れ、貰った花を差し、カウンターの前におく。

 荷物を隣の椅子においている茜をじっくりと見て、苦笑した。

「其の様子だと、また寝不足ですね?」

「あ、はい。恥ずかしながら、夏は暑くて眠れないんですよね」

 やんわりと微笑みながらも、困った表情を見せる茜に、孝治はううむ、と唸る。最近は暑さも和らいだとはいえ、まだ寝辛い日々が続くのだ。

「じゃあ、何か食べていきますか?」

 孝治の提案に、茜がおずおずと口を開いた。

「あ、あの………宜しいですか?」

「勿論ですよ」

 そうと決まると、孝治は調理を始めた。生憎と作り置きの材料はなかったので、パスタをゆでる事にした。材料の下ごしらえをしながら、コーヒーが沸くまで麦茶を代わりに出す。

「最近はどうですか? あのクソジジイは、きちんと組合に顔出してます?」

 孝治が気になっていたのは、啖呵を切った相手のことだった。資料もないのに無農薬の認定を寄越せ、と言った老人と、孝治は衝突していた。

 孝治の言葉に、茜は笑顔で答えた。

「最近は、皆さんきちんと出席してくれますよ? 相変わらず事務は私だけですが、それでも今までより楽です」

 茜の言葉に、孝治はホッと一安心した。暴れだしそうな輩だったので、心配していたのだ。

 それに、と茜は言葉を区切った。麦茶に口をつけながら、言葉を紡ぐ。

「孝治さんに言われて、成長を記録しているみたいです。内容もちゃんとしているようですから、近々、無農薬で認定が降りるかと」

「へぇ」

 其れは、意外だった。少なくとも孝治は、そういう風に動く相手だとは思っていなかったからだ。

 それでも、少しずつ改善しているみたいである。嬉しそうにそう告げる茜に、孝治も笑顔を浮かべた。

 そこで、茜は何かに気がついたように手を打つと、持っていた鞄を漁りだした。ややあって、目的の書類を見つけると、孝治に向けて差し出す。

「ここに、市場があります。市場の登録書類とかは一緒に入っていますので、自由に使ってくださいね」

「茜さん………」

 今、問屋からの流通ルートがない孝治にとって、茜の持ってきた書類は、ありがたいものだった。

市場で毒物混入事件が起きて以来、業者立ち入りが規制されていた。

流石に自分で赴かなければいけないが、市場で買い物をするのに必要不可欠なものだからだ。

 書類を大事そうにカウンターにしまいこむと、茜は近くにあるお品書きを見て、小首を傾げた。

「しばらくは、そんなにメニューもないんですね?」

「ええ。カレーとタコライス、それにオムライスぐらいっすね、主食は。其のほかには、サイドメニューもちらほらと。酒類取り扱い責任者の資格を取らないとお酒は扱えないので、しばらくは喫茶店ですね」

 卵は、五十六じいさんから分けて貰えることになっていた。当然のように養鶏場を持っている五十六じいさんに戦慄しつつも、孝治は苦笑気味に言葉を紡ぐ。

「料理学校の同期に、調味料に入れ込んだ奴がいて、結構安く入荷できるようになりましたし。駆け込み、ですね」

 調理師専門学校だからか、調味料等の流通に困らない。それだけではなく、コーヒー豆に入れ込み、コーヒーショップを営んでいる人物までいるので、そちらの流通ルートも押さえてあった。

 妙なところで繋がりは生きるものなんだな、と思いながら、孝治は言葉を紡ぐ。

「皆、久しぶりなのに、すぐに協力してくれたんですよ。本当に、ありがたい話で」

 最初に連絡を入れたときは、流石に驚いていたが、全員気前良く手伝ってくれた。

 誠に「だからお前なんだよ」といわれた事がある孝治は、其れに少しだけ引っかかるものを感じながらも、話を続けた。

「まぁ、明日の開店は上手く行くと思うんですけど、さすがに告知もまだなんで、誰が来てくれることやら………。むつみさんや五十六じいさんは来るみたいなことを言ってましたけど………」

 孝治の言葉に、茜は少しだけ顔を膨らませると、告げた。

「勿論、私も来ますよ? ううん! 楽しみです! 絶対に常連になりそうですしね」

 結構距離があると思うが、それでもきてくれるという茜に、孝治は涙腺に来るものを感じた。

 その内に、お湯が沸く。視線をそちらに向けて、孝治は茜へ告げた。

「じゃ、ちょっと待っててください。シンプルなミートソースですが、ちゃっちゃと作っちゃいますので」

「あ、はい♪ お願いします」

 茜の言葉を背中で聞きながら、孝治はキッチンの奥へ、脚を向けた。

 元々手際の良い孝治は、十分も立たずに料理を作り、キッチンから出てきた。ついでにコーヒーを淹れながら、孝治も休む。

 茜が孝治の作ったミートソースを食べ終え、ブレンドコーヒーを飲んでいる茜へ、孝治は思い出したように声をかけた。

「そういえば、茜さんは知ってます? うちの裏山≠フ事なんですけどね?」

 むつみから出された課題を、孝治は茜に相談してみた。このあたりのことを結構知っている茜なら知っていると思ったが、茜は困ったように眉を潜めると、首を左右に振った。

「いえ、私には、ちょっと分かりませんね………。五十六さんなら、分かるんじゃないですか?」

「其れはそうなんですけど、ね。流石にまだ早いかなぁ、って。なんていうか、こう、期待されている感じがあって」

 元々自分で出来る事は自分でやってきた孝治は、誰かに頼るのが苦手だったりする。誠とかには普通に頼れるのだが、他の相手だとどうしても尻込みしてしまう。

 そんな孝治を見て、茜はクスクスと笑う。其の笑い声に気がついた孝治が視線を向けると、茜は笑顔を向けて口を開いた。

「孝治さんも、はやく周りの人達と仲良くなれるといいですね」

「まぁ、そう、ですね」

 考えてみれば、仲が良いのは五十六じいさんだけだし、茜経由で知り合った老人には喧嘩を売っていたし、最近知り合ったむつみにはボコボコにされた。はっきり言って、良い思い出がない。

 半眼で呻いていると、キッチンからほのかな匂いがしてきた。其れに気がついた茜は、微笑む。

「あ、もうご飯の準備の時間ですか?」

「ええ」

 そういいながら、孝治はキッチンに視線を向けた。

「育ち盛りが、いっぱい来ますから」

「………そうですね。では、私はこれでお暇します」

 そういい、立ち上がる茜。その背中を見て、孝治は最後に声をかけた。

「体は、大事にしてくださいね。では」

 アカネは、笑顔で出て行った。

 

 

 

 

 孝治さんは、本当に凄いと思います。

 晴海さんもそうですが、梅澤さんと春日さんが一緒に歩くことなんて、今まで考えたことも無かったし、自分だって、こうやって歩けるとは思ってもいなかったですから。

「ねぇねぇ。今日の晩御飯、なんだと思う?」

 春日さんが、覗き込むように聞いてくる。彼女のこういうところは、その、彼女の魅力なんだろうけど、ちょっと遠慮して欲しいな。

「えっと、そうだね。カレーじゃないかな?」

「え? またかよ」

 文句は言っているようだけど、嬉しいのがわかる。カレーは結構多いメニューだけど、飽きないように色々と工夫してくれるから、多分飽きていないはずだ。

 其の時、晴海さんが口を開いた。

「今日の朝………鶏肉を貰ってた」

「っつうことは、チキンカレーか。あ、南蛮でもいいな」

「私、ビーフシチュー♪」

 それぞれが好きな料理を言い合う。孝治さんに言えば間違いなく、全部作ってくれると思う。………材料があれば、だけど。

 本当に、良い人だと思います。当たり前のようにご飯を用意してくれますし、なんていうか、僕の応援もしてくれているみたいですし。

 ………でも、晴海さんは如何みても、孝治さんに懐いていますし、ね。そんなことを考えると僕は、如何すればいいのか、と。

 そんなことを考えていると、ガシッと首に何かが巻きつきます。なんだ、と思ったときには、相手が誰なのか、わかりました。

「なんだなんだ? お前も悩みがあるみたいだな。同郷のよしみだ、話ぐらい聞いてやるぞ?」

 そういってきたのは、梅澤さん。彼女は、僕をからかうのが気に入っているようだけど、その、なんていうか、もう少し慎みをもってもらいたいです、はい。

「いや、なんでもないです、はい」

 僕の言葉に、梅澤さんは一瞬だけきょとんとした後、小首を傾げた。

「そうか? まぁ、別にいいけどな。あ、そういえば晴海。お前、根本に目をつけられてたんだって? しかも知ってるか? 『海坊主』がボコボコにされたんだってよ」

「そう」

「でさ。あ、祐樹君! これ食べる?」

 そういって、春日さんが僕にお菓子の袋を差し出してきます。今思ったけど、春日さんって結構食べるほうなんだな。

 一言礼を言って、ポッキーをもらう。春日さんはそのまま、晴海さんへ其れを差し出しました。

 二人も、仲良くなったとおもいます。っていうか、ここまで仲良くなるとは………。

 クラスの反応を見る限り、やっぱり注目度も高いみたいです。それは、彼女達を正当に評価しているという事なんでしょうけども―――あれ? 僕何言ってんだろ?

 それでも。

「あ、良い匂い♪」

 まだ明るい帰り道。牧場の入り口近くにあるレストランから、ほのかに香る牛乳の匂い。最初に春日さんが駆け出して、次に梅澤さんが急いで歩き出す。

 どっちも楽しみなんだな、と苦笑すると、一歩前に、彼女が歩み出た。

 そして、振り返りながら口を開く。

「行こう。祐樹」

 彼女が、そういう風に誰かに話しかけるようになったのも、あそこができてからだった。

こうやって、自分に話しかけてくれることも。

 ほのかに明かりが見えるあの家へ、僕達は歩き出しました。

 

「おう、今帰りか? 飯出来てるぞ?」

 

 牧草の束を肩に担いでいる孝治さんの、その声の元へ。

 

 

 

 

 

「………」

 森繁 久利は、自分の目元を手で隠しながら、痛む頭をどうにか気力だけで押し殺した。それだけでは飽き足らず、身体の力まで抜けて行くが、其れもどうにか押し留めた。

 ややあって、口を開く。

「………どういう意味だ? これは?」

「そのままの意味です。会長」

 そう答えたのは、秘書の女性―――河内。久利を補佐する冷静沈着な彼女は、珍しく困った様子で、半分呆れた様子を見せながら言葉を続けた。

「加奈さんが、二ヶ月の休職を求めてきました。そして、人事は其れを了承したとの事です。………如何してかは、説明しなくてもいいですね?」

「あいつは、そういう才能をどうして、こう………」

 完全にローカルネット化している会社のメインネットワークに外部から進入し、其れを誰が見ても不自然ではないように、無茶な変更をするという神業を見せたのは、孝治の妹である加奈だった。

 その父親である久利は、眼を揉みほぐしながら、告げた。

「あの分野は、まだ伸び続けていたな? 今の不況に、全く――――」

 加奈は責任感があり、真面目で親切丁寧な女性だった。孝治を慕ってはいるものの、流石にそこまで行動するような過激な思想の持ち主ではないと思っていた。

 その久利の考えを先読みしたのか、河内は手元にある書類を片付けながら、口を開く。

「しかたないのではありませんか? 私はむしろ、今まで良く我慢できたものだと思っていますよ」

「………なんだと?」

 久利の戸惑いに、河内はきっぱりと口を開いた。

「彼女、根本的なまでにブラザーコンプレックスですから。危険なほどです」

 その河内の言葉に、久利は今度こそ、言葉を無くすのだった。

 

 

 

 

 


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