何処にでも、心優しい人もいれば、風変わりな人もいる。普通、と呼ばれる人なんて多くも居ないし、其の誰もが特別な生活をしているのだ。

 1人、『柳市』に風変わりな人がいた。広大な土地を所有する五十六家の、東の端にある一軒家。突然現れた若い女性がそこに住み始め、農業を始める。

 土地の所有者、五十六は怒った。突然現れた相手が、自分の土地を使って、自由奔放に生きていたのだから、怒らないわけがない。

 しかし、彼女には一人の娘がいた。

 その娘を育てるために、彼女は多くの作物を育て、動物を育て、生計を立てていた。自給自足の生活を創り上げた彼女に、人情派の五十六は心動かされ、土地を分け与えた。

 それから、十三年が過ぎた時、娘は独り立ちした。

 そして、若い女性は年相応の時代を積み。

 

 未だにそこで、生活を続けていた。

 

 

 

 

 其れは、衝撃以外の何物でもなかった。

 父親の言葉を受けて、レストランでの仕入先を探そうとしていた孝治。

 しかし、この土地特有なのか、ここにあまり良い感情を抱いていないこの場所では、農家からの直送入荷が出来なかった。というより、誰も話を聞いてくれそうに無い。

 茜さんにも相談したのだが、難しい、との事。

(まぁ、あんな風にいい加減な奴等じゃ、茜さんのほうに迷惑かかるよなぁ)

 そう考えた俺は、力になると言ってくれた茜の協力を、断った。

 手元にあるのは、父親が使ってもいいといった資金。三百万円ほどあるが、考えて使わなければ、すぐに消えてなくなってしまうだろう。しかも、俺としてはあまり使いたくないお金だ。

 どうしようか、と悩んでいる俺のところに、転機が訪れた。

きっかけは、簡単なものだった。五十六じいさんが差し入れだ、といって持ってきた野菜を見た時。

 その素晴らしい野菜に、眼が釘付けになった。

 まず、身が小ぶりである。小さいのが良いわけではないが、きちんと実が詰まっているのが触っただけで分かるのだ。

 手に持った、一際小さいにんじんを、齧ってみる。甘味と苦味、そして若干の渋みがある、にんじん本来の美味しさ。

 いままで材料にこだわっていたはずの俺ですら、それは衝撃的だった。

「五十六さんっ!?」

 慌てて振り返ると、五十六じいさんが笑っていた。不敵に微笑む五十六さんは、近くに転がっているピーマンを拾い上げると、口を開いた。

「お前さんなら判ると思ったが、流石森繁だな。そうだ。これが、俺の知る最高品質の野菜だ」

 そういう五十六じいさんの顔は、嬉しそうだった。

「毎年この時期になると、収穫できたものを持ってきてくれてよ。ったく、自分で食べて行くのも大変だろうに、たいした奴だよ」

「って、もしかして、この野菜――――」

 話に聞いた事が、あった。俺の曾祖父母と面識があり、中学生で子供を生んで、たった一人でこの土地の隅で畑仕事を続ける人を。

 それに答えるように、五十六じいさんは其の名前を、口にした。

「飯井 むつみ。再来年で三十路近くの、未亡人だよ」

 ………なんでニヤニヤしてんだ? このおじさんは?

 

 

 

 

 八月 三十日。

 

 夏休みももうすぐ終わり、という事で、部活動もなくなった真理は、未だに寝ぼけ眼の晴海を引っ張って、森繁牧場に現れた。いつもどおり五頭の羊が牧場で草を頬張り、二頭の牛が端っこのほうで寝そべる、平和な風景。

 その中心にいるのは、二人のお目当ての人物である、孝治の後姿だった。

とはいえ、朝練目的の真理はともかく、それに付き合わされる晴海にとっては、別に孝治はお目当ての相手ではないのだが、其れはさておき。

 ふと、晴海は小首を傾げた。孝治にしては、いつもよりも手際が悪いような気がしたのだ。

 なんでだろう、と真理と一緒に孝治のところに歩いていった時だった。

「コーチ、おはよう♪」

「………おはよう」

 上機嫌な真理と、晴海の低血圧な言葉に。

「ひょう、おひゃひゃおう(おう、おはよう)」

 顔を膨れあげた何かが、そこにあった。

 それは、もはや壁だった。赤くはれ上がった顔に、辛うじて見える眼が白く見え、そして青筋が幾つも張り巡らされ。

「きゃあああああああああああああああああああああっ!?」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?!?!?!?」

 盛大な悲鳴をあげた真理と、言葉をなくし、顔を真っ青にして倒れて行く晴海の姿があった。

 

 

 

「笑い話じゃねぇっつうの。話を聞きに行っただけでこの有様だぜ?」

 顔面壁男(もしくはたこ焼き機張り付き男)になった孝治は、鏡の前で自分の顔に向かって治療している。意外に抵抗のなかった晴海はまだ夢の中だが、悲鳴をあげていた真理は、少しはなれたボックス席から様子を窺っていた。

「ほ、ほんとうに大丈夫? コーチ?」

 びくびく怯えながら聞いてくる真理に、孝治は肩肘を付きながら答えた。

「そのリアクションは本気でへこむから止めてくれ。俺も流石にあのまま仕事しようとは思わなかったけど、ま行の羊と酷物牛が可哀想だったんだよ」

 そういいながら、シップを頬に張る。その頃になってようやく復活した晴海が、口を開いた。

「でも、孝治が負けるなんて、思わなかった」

 それは、孝治自身も考えていたことだ。確かに全盛期の半分ぐらいしか力がないとは言え、全く手も足も出せないという其の状況は、異常だった。

「全くだ。俺も、あんなに手も足も出ないとは思わなかったぜ」

 思い出しただけでも、体が震えだしてしまう。根本的な土台が余りにも違いすぎたのだ。

 しかし、解せない事があった。腕を組みながら、カウンターの椅子に座り込むと、唸る。

「本当に会いに行っただけなんだよな。一言も言葉を交わす事無くボコボコにされたし、顔も良く見て無いし。どういうこったい?」

 野菜の美味しい作り方を聞きに行っただけだというのに、話す間もなくボコボコにされ、そのまま捨てられた。

朝早く会いに行ったのが悪いのか、とも思ったのだが、朝六時と言うともう働き出していると聞いているので、そうでもないはずだ。

 怪訝な思いを抱いていると、復活した晴海がヨロヨロと孝治に歩み寄ると、隣の椅子に座った。いつもの感情が見えない三白眼で見上げてくると、そっとたんこぶに手を添えた。

「………大丈夫?」

「当たり前だよ。こんなんで壊れるほど、俺は柔じゃない」

 そういい、孝治はまた、立ち上がる。パン、と手を叩くと、もう一度二人に振り返った。

「つうわけで、もう一回話を聞きに行こうか。今度は話を聞いてくれるだろうし!」

 最後の言葉を合図に、孝治は駆け出し―――――

 

「あ〜〜〜〜〜〜〜〜! コーチ! 練習はっ!? 朝御飯はっ!?」

 真理の悲鳴が響いた。

 

 

 

 

 その一時間後。

「ふぁ、ふぁぜふぁ?」

 上唇と下唇のくっ付かなくなった孝治が、命からがらに戻ってきて。

「………きゅ〜」

 真っ青になった晴海が、倒れた。

「………んで? その惨状はどうした?」

 何時の間にか真理が消え、入れ替わりとばかりに箕郷がいた。箕郷の話だと、午前中は部活の練習らしく、学校に行ったらしい。其れの代わりに箕郷が勝手に入ってきて、コーヒーを飲んでいたそうだ。

 優雅なコーヒータイムを勝手に満喫する箕郷は、不敵に笑うと口を開いた。

「あのむつみさんだろ? 止めとけよ。お前が言っても、ボコボコにされるだけだ」

 箕郷の言葉に、孝治は顔をあげた。頬に氷のうを当てながら、ガーゼで消毒している孝治を一目見て、胸ポケットに差して置いた眼鏡を広げ、掛けながら言葉を紡ぐ。

「あの人は、旦那さんが死んでから1人で子供を育ててるんだ。そりゃ、他人には敏感だろうさ」

「へぇ。………つう事は、十四歳か?」

 同期、という箕郷の言葉に小首を傾げたくなるが、それでも納得してしまった。

箕郷を始め、真理や晴海と、このあたりの中学生は何かと事情が複雑なのだ、と改めて認識する。

「は? 何言ってんだよ」

 と、其の時、孝治の話を聞いていた箕郷が、怪訝な声をあげた。同時に怪訝な表情を浮かべた孝治に、箕郷が言葉を発した。

「十三歳だよ。私の後輩。今度、連れて来てやるよ」

「それはまた………面倒くさそうなニオイがぷんぷんなんだが」

 あまりな物言いの孝治の言葉に、箕郷は軽快に笑うと、答えた。

 

 

「当たり前だろうが」

 

 

 其の言葉に、孝治は言葉をなくした。

 結局、夕方にもう一度むつみの家に向かったのだが、顔を見る間もなくボコボコにされた。

 結論。

 

 孝治はむつみの顔を見る間もなく、其の日を終えることになった。

 

 

 

 

 

 八月 三十一日。

 

 夏休み最終日。

 夏休みも今日で終わり、ということもあってか、朝早くからいつもの面子が揃っていた。

「皆さぁん、おはようございまぁす!」

 嬉しそうな真理の言葉に、未だにふらふらと頭を揺らしている晴海と座って目を瞑っている箕郷、少し戸惑っている祐樹が僅かに反応した。

 晴海は、一瞬だけビクッと体を震わせたが、すぐに船をこぎ始めた。たったまま左右に揺れる晴海の横で、箕郷は大きく欠伸をして、顔をあげた。

「なんで、こんな朝早くから集んなくちゃ行けねぇんだよ」

 ピー、と、笛が鳴った。其れにより晴海がまたビクッと震えるが、まだ眠りからは覚めていないようで、唸っている。

 笛を鳴らしたのは勿論、真理。サッカーの試合に使うホイッスルを口に銜えながら、胸ポケットから黄色いカードを取り出すと、叫んだ。

「箕郷っちイエローカード!」

「なっ!?」

 意味が分からないが納得いかない箕郷に、真理は毅然とした態度で答えた。

「イエローカード三枚でレッドカード一枚、コーチの作ったおやつ抜き」

「おいおいおいおいっ!?」

 真理の言葉を聞いて、箕郷が悲鳴をあげた。其の頃になってようやく晴海が薄く眼を開くと、小さく口を開いた。

「………おはよう」

 ようやく起きた晴海に、真理は笑顔で挨拶をする。次いで祐樹に視線を向けた晴海は、箕郷に向かって挨拶をする。

「いや、お前がアイツにどんな対応をしようか知ったこっちゃないけどさ、かわいそうだろ?」

 祐樹を華麗にスルーした晴海に、流石の箕郷も物申す。其れを聞いた晴海は、祐樹に視線を向けると、口を開いた。

「………おはよう、祐樹」

「お、おはよう!」

 思わずどもって返してしまう祐樹に、晴海が小さく告げた。

「うるさい」

「ええっ!?」

 悲鳴をあげる祐樹を見て、真理はうんうんと頷きながら、口を開いた。

「おはよう、晴海っち。祐樹君、ドンマイ。と、いう訳で、今日は夏休みのお礼を兼ねて、この牧場を探険&お掃除していこうかと思います!」

 真理の言葉に、晴海と箕郷が顔をあげた。怪訝な表情を浮かべる晴海へ、真理はふふん、と誇らしげに微笑むと答えた。

「毎日のように遊びに来ては、箕郷っちは新聞読んでコーヒーを飲むだけ、晴海っちは本を読むだけ、祐樹っちは其の晴海っちを見てるだけ、何もしていません」

 自信満々にいう真理に、箕郷が言葉を続けた。

「お前はサッカーの練習で邪魔してなかったか?」

「何・も・し・て・い・ま・せ・ん!」

 箕郷の言葉を、真理は区切る。指を一本立てながら、真理は言葉を続けた。

「とにかく、そろそろコーチにも恩返しをしないといけないと思うんだ。なんだかんだ言って、食費が凄い事になってると思うし」

「主にお前じゃねぇか」

 大食漢である真理に、箕郷が鼻で笑いながら言葉を吐く。流石に自分でもそう感じていたのか、唸り始める真理を横目に、晴海が口を開く。

「コーヒーの豆代も」

「う」

 孝治の趣味とはいえ、コーヒー豆の値段もかなりする。街のほうに行けば店があるが、直接卸している訳ではないので、高い。

 半眼で呻く箕郷と真理を置いて、晴海が孝治の朝御飯を食べようと家に向かおうとした時、隣にいた祐樹が笑顔で口を開いた。。

「でも、晴海さんも本を置きっぱなしだよね。あ、あと良く孝治さんにパフェを―――を、お、ぉぉ………」

 途中で眼を見開いた晴海が、祐樹に振り向く。晴海の威圧するような三白眼に、言葉を無くすどころか呼吸まで止まりそうになる祐樹を背に、箕郷がため息を吐いた。

「結局のところ、全員が世話になってるわけだ。別にいいだろ? アイツは、私達がいるだけで楽しいんだから。ギブ&テイクだろ」

「全然対等じゃないよ!」

 ようやく復活した真理が、笛を鳴らしながら叫ぶが、箕郷は相手にもしないで笑う。

その隣で祐樹が、無言のまま三白眼で覗き込んでくる晴海の視線から逃げていた。本来なら嬉しいのかもしれないが、今の晴海は恐怖以外の何物でもない。

そんな混沌とした空間を、他の人間が見たらどうなるか。

「………何してんだ? お前ら」

 其の反応が、孝治の反応そのものだろう。

 朝六時。いつもどおり朝の餌やりを始めようと、着替えて出たところで、箕郷と真理が何かを言い合い、晴海の眼差しから逃げる祐樹という、混沌とした風景。

 はっきり言って、理由が分からなかった。

 戸惑っている孝治へ、真理が若干の涙目で、叫んだ。

「コーチもなんかいってよ! 私達何もあげてないよねっ!?」

 真理はそういいながら、孝治に詰め寄る。孝治としては、彼女の胸で揺れているホイッスルが気になるところだが、とりあえず質問に答えた。

「ま、まぁ、物質的には何もいただいておりませんが?」

「だよね!」

 孝治の言葉に、真理が満足げに頷く。「どうだ!」と箕郷に勝ち誇ったような顔を見せる真理に、孝治が小首をかしげていた。

「ご、ごめん! その眼はやめてぇ〜〜〜っ!」

 その横で、まだ晴海が祐樹を覗き込んでいた。

 

 

 

「ああ、そういうことか。んで、早めに集ったと?」

「そういうこと!」

 真理から今日の主旨を聞いて、孝治はようやく今の展開を把握した。つまり、夏休みの間世話になったこの牧場を、今日一日探険しながら掃除して廻りたいらしい。

 最初、晴海と箕郷は乗り気ではなかったようだが、真理の説得(?)によって、参加することに決めたようだ。無論のこと、祐樹も、だ。

 なら、と孝治は素直に頼むことにした。明日からは四人とも学校だからこそ、なにか思い出が欲しいのだろう。最後の日ぐらい家にいればいいのに、と思いつつも孝治は指示をだす。

「なら、少し頼もうか。祐樹君は真理と一緒に牛と羊たのむ。外に出してブラッシングと畜舎掃除。箕郷と晴海はレストランの掃除な」

 祐樹は一度、家畜の世話をしたことがあるから、出来るはずだ。それに慣れている真理をつければいいし、箕郷と晴海はレストランの事を知り尽くしている。

 そこで、晴海が声をあげた。

「………孝治は?」

「ん? ああ、俺は裏の温泉に屋根つけてくる。今吹きさらしだからよ、すぐに汚れるんだ。あ、あと、腐らないように防水加工もな」

 花火大会以来、あまり使っていない裏の天然温泉だが、即興で作ったため穴だらけで、補強しないといけないと思っていたのだ。こうして手伝ってくれる間に作り直そうかと思っていたのである。

 孝治は、手を叩いた。

「んじゃ、昼の時間まで頼むな。疲れたら、確実に休んでくれよ」

 そうして、森繁牧場での一日が始まった。

 

 

 

「流石に、いい加減に作りすぎたか」

 露天風呂に久しぶりに来てみれば、土台から水が溢れていた。もともと木を組み合わせて無理やり作ったものだからしかたないが、流石に呆れてしまう。

「ま、今日ちゃんと作ればいい話だし。さて、元の木を外すか」

 元々、ただ穴を掘っていたところを木で囲い、風呂桶を作っただけなので、崩れやすい。もともと、外に風呂を作ろうと考えて用意していただけあり、大きさはいいのだが、温泉用ではない。

つまり、底からお湯を入れる機構がないのだ。湧き出す温泉はちょっと熱い位だが、水を混ぜられる機構も一緒に作らないといけないだろう。

 と、いう訳で、川の水を引く水路の先に桶を作り、そこから蛇口の栓をつけたパイプを風呂桶に繋げる事にした。水を取り込む場所を下にして、水を流す場所を上にすれば、汚れた水を直接入れずにすむ。

 そして、直接土に面して風呂桶を作ると、ミミズや蟻が恐いので、穴に石を積み上げ、木の板を張り巡らした後、さらに蓋をするように風呂桶を沈ませる。

 丁度、大きな鍋に小さい取っ手の付いた鍋を入れるような感覚だ。外桶と中桶の間に空間があるので、蟻は桶に侵入してこない。風呂桶の木の隙間は水だけ通すので、ちょうどいいのだ。

 欠陥は勿論あるが、個人所有ならこれぐらいだろう。

「流石に1人でコンクリは無理だしな」

 1人呟きながら、孝治は風呂桶を組み立てる。すでに穴は石と木で固定されており、後は風呂桶を入れるだけで完成だった。

 この時点で、時刻は十時過ぎ。そろそろ他の面子の様子を見に行こうと、孝治は手を止めた。

「さて、んじゃ、最初は――――」

 

 一、晴海と箕郷の様子を見に行く。

 

 二、祐樹と真理の様子を見に行く。

 

 三、むつみに会いに行く(殴られる)。

 

 四、宇宙意思を感じる。

 

 

 

「だから毎度この電波はなんなんだああああああああああああああああああっ!!!!」

 孝治の悲鳴が、裏山に鳴り響いた。

 とりあえず、孝治は一番近い畜舎、真理と祐樹のところに向かった。

「掃除とブラッシングだけだから、流石に終わってるか。本当は、子供にやらせることじゃないけど、穀物牛やま行羊達は穏やかだからな――――」

 バガン、という炸裂音が響く。其れと共に畜舎の壁が吹き飛ぶと、黒い影が飛び出してきた。

 モロコシ。其の背中には、ポニーテールを結った真理の姿があり、慌てて飛び出してきた祐樹の姿も、あった。

「ちょ、止まってよ! トウキビ!」

 モロコシだと思ったら、実はトウキビだった、というどうでもいい情報を整理していると、モロコシは再度、畜舎に突っ込み、壁を破壊する。

「って、そんなこと考えてる場合じゃねぇ!」

 孝治は慌てて、その場を駆け出す。其れと同時に、柵の中に向かって畜舎の壁を破壊して入っていったトウキビを見て、孝治も柵の中に、飛び込む。

 トウキビの前に躍り出た孝治は、叫んだ。

「トウキビ! 止まれ!」

 そういった瞬間、トウキビは両足を踏ん張って――――止まった。

「へ?」

「へ?」

 素直に止まるとは思わず、また、止まると予想もしていなかった孝治と真理の動きが、止まる。必死にしがみ付いていた真理は、急に止まった慣性で大きく吹き飛ぶ。

 宙を舞う真理を見て、孝治はハッとした。慌てて真理の落ちてくる場所に回りこむと。

「ぐぎゃ」

「ガアッ!?」

 蛙の潰れる音のような声を出す真理を、孝治は抱きかかえて倒れた。軋む体に、痛む背中をさすりながら、孝治は真理に視線を向けた。

「だ、大丈夫か?」

 孝治の言葉に、真理がしばらく呆然としていた後、ハッとして顔を上にあげた。

「う、うん! こ、コーチこそ!」

 息もかかる距離。真理を抱きしめていた孝治は、小さく頷くと、答えた。

「いや、大丈夫だ。いいから、退いてくれ」

 窮屈だろうと思い、手を離す。ようやく動けるようになった真理が退くのを待っていた孝治だが………。

 動かない。怪訝な思いを抱いた孝治へ、真理の予想外の声がに響く。

「コーチ、汗のにおいが凄いね」

「そう思うなら退いてくれ。お、重い」

 そういった瞬間、真理がガバッと体を上げた。体勢的には孝治の腹に馬乗りになる格好で、真理はチョロッと舌を出すと、眼を吊り上げながら言った。

「女の子に重いなんていっちゃ駄目なんだよ、コーチ。と言うわけで、ばつ」

 ちょっと飛んで、思いっきり腹に尻を叩きつける。流石にそれほど重くはないのだが、勢いの付いた攻撃は、流石の孝治にも辛かった。

 其れよりも何よりも、この体勢が不味い。いうなれば感触もヤバイのだが、孝治にとって真理というのは妹に近い存在なので、特に思うこともない。

「って、限度があるわ!」

「きゃあああ♪」

 ぺい、と真理を芝生にひっくり返すと、其の隙に立ち上がる。大きくため息を吐いていると、芝生に転がった真理が、愉快そうに笑った。

「ははは♪」

「………まったく」

 叱ろうとも思ったが、孝治は相好を崩した。叱る事も考えていたが、怪我もないようだったし、どうしてこうなったのかを聞かなければ、きちんと叱る事も出来ない。

 其の頃、ようやく祐樹がこちらに駆け寄ってきた。本人も相当危険な眼に合ったのだろう、全身汚れていた。

 座り込んでいる孝治に駆け寄ってきた祐樹は、慌てた様子で叫んだ。

「孝治さん! 大丈夫ですかっ!?」

「おう。祐樹君は怪我がないか?」

 見たところ、怪我をしている様子はない。祐樹は頷くと、困ったような表情を見せ、口を開いた。

「実は、真理さんがブラシを掛けてる時に、僕がトウキビに触ったら、いきなり暴れだして………」

「………トウキビが?」

 其れは、意外だった。

少なくとも、今までトウキビが暴れた事は無い。今まで何度か祐樹にブラシを掛けてもらった事だって在ったし、真理だってそうだ。

 現に、今は落ち着いている。嬉々と笑いながらトウキビに抱きつく真理と、静かに草を食べているトウキビを見て、孝治は小首を傾げた。

 結局、祐樹と孝治が畜舎を直すのに、一時間以上掛かってしまった。

 

 

 

「というわけで、随分時間が掛かったみたいだから、昼飯は私達が用意したぜ」

 昼頃。

 後ろの露天風呂と畜舎を直しおわった孝治たちがレストランに戻ると、すでに昼食が用意されていた。

 用意されていたのは、シチュー。美味しいジャガイモとニンジンがあったから作った、という晴海と箕郷を見て、孝治は気がついた。

 厨房から、黒い煙が燻っていた。カウンター越しからでも分かる、散乱した食材と機材、そして焦げ臭いニオイ。

 そして、煤だらけの顔と汚れたエプロンに塗れた、箕郷と晴海の姿。

 たしか、二人にはレストランの掃除を頼んでいたはずだ。しかし、やっていた事は昼食作り――――破壊工作。

 其れの真意を知りたい孝治の視線に、最初に気がついた箕郷が答えた。

「まぁまぁ、そう褒めんなって。いやぁ、掃除はすぐに終わったからさ。暇だからよ!」

 その顔には、遣り遂げたような表情があった。恐らくは、喜んでもらえると心の奥から考えての行動なのだろう。

 そして、孝治は二人の様子が変わっていることに、気がつく。

 箕郷の指には絆創膏が撒かれており、晴海のエプロンはところどころ汚れていた。

(そういや、箕郷、ナイフは上手いけど、包丁は苦手なんだっけ)

 晴海は晴海で、以前のようにひっくり返さないように色々と手を尽くしたようだが、分量を見ると、一度ひっくり返したようだ。それでも、一生懸命やったのだと、すぐに分かった。

 実際、レストランの厨房は、朝よりも汚れていた。それでも、二人ともやりきったという表情を見せてくれる。

(こいつ等………。朝言ってたことの逆をやってないか?)

 朝、確かにこの四人は手伝ってくれると言っていたが、やっている事は畜舎破壊に、厨房破壊。

 確かに、真逆のことをやっているが―――――

「有難うな、四人とも」

 孝治は知らず知らずのうちに、満足げな表情を、浮かべていた。

 誰かが、自分のためを思って行動してくれる。其れが、ほんの少し横道に逸れたり、間逆になってしまったとしても、その気持ちが、とても嬉しい。

 温かな、シチューの湯気。人数分並べられたテーブルに、それぞれ座った。

 奥から孝治、晴海、真理と、孝治の対面が箕郷、其の横が祐樹と言う席順。全員で手を合わせ、「いただきます」の挨拶をした後、孝治はスプーンを沈めた。

 ゆっくりと持ち上げ、口に含んだ。

「――――美味い」

 そういった瞬間、前のほうから「やりい!」という声が上がった。前に座った箕郷が、晴海に向かって親指を突き立てて、笑う。

 其れに答えるように、晴海も親指を突き出して、返した。其れと同時に、孝治のほうへ視線を向けると、小さく、微笑む。

 そう、笑う。笑うのだ。

 何時の間にか、【孤独姫】と呼ばれていた彼女は、自然に笑えるようになっていた。隣に座る真理の「美味しい♪」という言葉にも満足げに頷く。

実際、晴海がこうして満足げな表情を見せるようになったのは、いつだったろうか。

「あ、晴海っち、嬉しそう」

真理が、こうやって晴海と話せられるようになったのは、いつだったろうか。

「晴海さん、美味しいです」

祐樹が、こうやって晴海と一緒に食事を取るようになったのは、いつからだったろうか。

「あ、孝治。コーヒーでも飲む?」

 箕郷がこうやって、他の人と話し、気を回すようになったのは、いつからだったろうか。

 確かに、この場所で、変化は起きている。

 

 

 

 

 食事を終え、皿を片付けていると、全員が静かなことに気がつく。怪訝に思った孝治は、厨房から店内を見て、微笑んだ。

 カウンターでは、腕を組んで眠っている箕郷。

 ボックス席の長い椅子の上で横になっている真理と、これまたボックス席で机に突っ伏して眠っている祐樹。

 そして、片づけを手伝う、といいながらも、厨房の椅子に座って眠っている、晴海。

 静かに眠る四人を見て、孝治は笑う。

 

 こうして、森繁牧場での最初の夏休みは、終わるのだった。

 

 

 

 

 


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