「今期の決算としては、黒字のまま終わりそうですね。会長」
広い会議室。決算の会議としては、やや砕けた雰囲気が漂う其の場所。
灰色の絨毯の上に置かれた大きな円卓に、並ぶ見慣れた顔。其れを一瞥した後、一人の男が立ち上がった。
黒髪と蓄えられた髭を持つ、屈強な体躯を持つ男性。その男が立った瞬間、空気が一変した。
静けさが際たつ其の場所で、男が口を開く。
「貴様等は、この数字で満足しているのか?」
其の言葉に、答える言葉はない。それどころか静寂が場を支配し、身体を動かす事すらできなくなった。
その場の対応に、男は大きくため息を吐いた。落胆とも、力を抜いたとも取れるそのため息は、全員に緊張を齎す。
切迫した空気が支配する会議場で、その男の隣に座っていた女性が、立ち上がった。
「会長。この不景気の中、この数字は頑張ったほうだと思いますよ? まぁ、一部の人にはもっと頑張っていただきたいとは思いますが」
棘のある言葉を言ったのは、端正な顔立ちを持つ女性。その鋭いともいえる眼差しは、スッと男性を見据えると、口を開いた。
「これで、終わりです。構いませんね? 会長」
男の頷きで、会議が終わった。
空気から開放された其の場所で、雑談が場を支配する。徐々に離れて行くその雑音を聞き流しながら、女性は男へ向き直った。
「すこし、らしくないのではありませんか? 下方修正したとはいえ、まだ黒字と予想の圏内。確かに、期待できる人材が少ないとはいえ、各々必死に頑張っています」
「そう。人材が少ないのだよ。河内君」
言葉尻を、捕まえる。怪訝な表情を浮かべ、顔を覗き込もうとする女性――河内へ、男は口を開いた。
「前の決算時期からは回復したし、はっきり言って、今の不況でこの伸びは喜ぶべきものだ。しかし、だからといって今後も伸び続けていく保証は無いし、その期待すらないんだ。不安があるのは、しかたないとは思わないかね?」
男の言葉に、河内は淡々と手元の書類を片付けながら、答えた。
「不安があるのはどの企業も一緒です。啓二さんも頑張っているのですから」
彼女の言葉に、男は一つ、大きなため息を吐くと、そのまま腕を組んで椅子にもたれかかった。
椅子を回し、ある程度思考した後、ふと何かに気がついた様子を見せ、口を開いた。
「確か、私の有給は残っていたね? 明日から二日間、有給をとろう」
其の言葉に、河内の手の動きが止まる。過去数年間、全く休暇をとろうとしなかった人物の、突然すぎる切り出しに、怪訝な思いを隠せなかった。
その表情を隠す事無く、河内は言葉を紡いだ。
「そうしていただけると、こちらも助かりますが、いったいどちらへ?」
河内の問いかけに、男は立ち上がりながら、口を開いた。
「『柳市』、だ」
其の言葉に、河内の表情が、歪んだ。
八月 二十五日。
さて、新緑も深々と染まり、灼熱の太陽がさらに照りつける日。
この人も殺せるような殺人光線の中、我が森繁牧場に新しい仲間がやってきたのだ。
「メェー」
「おお〜」
羊。オーストラリアメリノ種という品種で、角が生えていない、白濁色の毛皮の羊で、五頭やってきた。
見分けが付かない、その毛むくじゃらの生物へ、朝早くから練習に来ていた真理が、素敵な名前を付けてくれた。
「君はマリーで君はミリー、君はムリーで、君はメリー。最後の君は、モリーだっ!」
お前、手抜きだろ、と思ってはいけない。なぜなら彼女は、二頭の牛にまで、モロコシとトウキビという名前をつけているのだ。
外見では、ほぼ差が無い。体格差はある物の、限りなく微差で、判断しかねるほどだ。
と、いう訳で、一気に騒がしくなった牧場では、いつもどおりサッカーの練習に来た真理と、牛の身体を洗っている俺の姿が、あった。
朝は、いつも午前中に部活がある真理が先に来て、俺とサッカーの練習をする。練習と言っても、俺からサッカーボールを奪うだけ、という簡単なものだが、其れがとても難しい。
俺は、基本的に足技しか使わない。両手を使った巧みなボディテクニックを使うのが本来の動きなのだが、其れを使うまでも無く、真理は翻弄されるからだ。
素直な性格らしく、真っ直ぐ進んでくる真理。そういうやり方は嫌いではないが、上手い人間は例外なく脚の動きが自由自在なので、真理のようなタイプは簡単にあしらえてしまうのだ。
とろうと脚を伸ばす先にはもう足があり、ボールに届かない。それが焦りを生んで動きをさらに単調にする、負のスパイラルが完成するのだ。
とはいえ、真理も全く進歩が無いわけではない。どんどん身体を密着させ、腕で相手の動きを牽制し、削りをいれる事ができるようになっているのだ。
「ぷはぁ! コーチは上手いなァ!」
バタン、と、精根使い果たした真理が、地面に倒れた。
「ふ。鍛錬が足らんわ」
不敵に言いつつも、俺の足はがくがくと震えている。と言うのも、真理の削りが半端ではなく、限界ギリギリと言う事だった。
才能は、確かにある。それだけではなく、向上心も、努力する事もしている彼女は、確かに成長が早かった。
「うぅ。今日は休みだから、絶対にとってやるぅ」
そう呻く真理に、俺は思わず、半眼で呻いた。
「おいおい」
芝生に大の字で転がりながら闘志を燃やす真理に、近付いて行くモリー。近付いてきたモリーの頭を撫でながら、真理はじゃれ付くように転がりまわっていた。
其れを見届けてから、俺は改めて、周りを見渡した。
「さて、結構、形になったよなぁ」
広大なイタリアンライグスの芝生に、牛と羊の畜舎、サイロと、最低限必要な設備が揃っていた。山の入り口もある程度手入れしてあり、少し登れば手作りの温泉がある。入り口にはログハウス風のレストランもあるし、俺の家だってあった。
「此処に来て、結構経つけど………まだまだだな」
レストランの開業は、九月三日予定。特に広告を出しているわけでは無く、「OPEN」と書かれた立て札だけ用意してある。近くまで行かないとレストランかどうかさえ分からないが、其れでいいと思った。
(別に儲けようって分けじゃないしな。ま、のんびり生活しとくか)
やりたい事は、決まっている。後は、どうやって其れを成し遂げるか、だった。
そんなことを考えていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「お〜〜〜〜い」
ふと、その先に視線を向けた先には、日光に輝くブロンドヘヤーが、見えた。
箕郷が晴海と祐樹といういつもの面子を従え、何かを持って現れたのは。
「夏休みももうすぐ終わりだから、全員で勉強しようぜ? つうか、写させろ」
レストランに集った全員に向けられた箕郷の言葉に、孝治が間髪いれず鉄拳を振り下ろす。
器用に片手で全員分の飲み物を持っていた孝治は、其れを机の上におきながら、口を開いた。
頭を押さえて悶絶する箕郷へ、孝治は説教を開始する。
「自分で勉強しない奴はそうだから困る。みてみろ、お前以外はちゃんと――――」
言葉を放ちながら視線を回りに向けていた孝治は、いつもよりも大人しく椅子に座っている真理を見て、動きを止めた。
眼が、見事なまでに点になっている。視線を向け続けていると、正座の体勢になり、嫌な汗が流しだす始末だ。
つまり―――――。
「お前と真理以外はちゃんと勉強しているだろうが」
「うわぁ〜ん! コーチのバカぁっ!」
「過半数じゃねぇかよ!」
真っ直ぐ言われ泣き出す真理に、なぜか切れ返す箕郷。半眼を向けた孝治は、告げた。
「お前のほうがたちが悪いわ、阿呆」
部活をやっている真理ならまだしも、帰宅部でほぼ毎日コーヒーを飲みに来ていた箕郷は、何の弁明も出来ない。孝治にそういわれ、箕郷も何も言えなくなった。
今まで黙っていた晴海が、半眼で告げた。
「自業自得」
「〜〜〜〜っ!」
真っ赤になって叫び返そうとするが、言葉が出ない。全く持って其の通りなので、孝治も頷くと、血管が浮き上がった。
「ま、まぁ、ね。全くやってないってのは、ちょっと………」
挙句には、祐樹にまでそういわれてしまう。二人に言われ、ぐうの音も出ない箕郷と真理へ、孝治がため息混じりに、告げた。
「ほら、だったら今日からやればいいだろ。分からなかったら晴海か祐樹に聞けばいいんだし。………っとと、朝飯まだだったな」
比較的早い時間(八時)に集っている面子の中、朝から牧場の仕事と練習をしていた孝治と真理は朝食をとっていない。何にしようか、と考えながら、他の面子へ一応、声をかけた。
「朝御飯、食べてない奴?」
全員が、手を挙げていた。
と言うわけで、勉強会が始まった。
「朝御飯は食べやすいようにサンドイッチだ。あれ? サンドウィッチの方が正しいのか?」
テーブルの上にある宿題を避けるように置く孝治の言葉に、晴海は手を止めて答えた。
「どちらも正しい。ようは、発音の違い。だから、此処にはgとhがはいる」
「Rightッ!? ライトならRiteだろうがッ!」
今時小学生でも分かるような問題を間違える箕郷と、それに何の反応もしない晴海の言葉を聞きながら、孝治は近くの教科書を持ち上げながら、言葉を続けた。
「英語かぁ。空欄は全部andで埋めてたなぁ。意外と当たるんだよ、あれ」
「あ、私もやる♪」
孝治と意外な共通点があって嬉しいのか、身を乗り出す真理。其れの額を押して席に戻しながら、孝治は真理と祐樹がやっているものへ、眼を向けた。
「お前たち二人は、数学か。関数あたりか?」
「サインコサインタンジェント〜〜」
わけのわからない悲鳴をあげる真理に、祐樹は苦笑していた。意外な組み合わせだと思わなくも無いが、祐樹の教え方が上手なのか、ある程度理解すると、すらすらと問題を解いていた。
覚えがいいのか、と感心していた時だった。
カラン、と入り口の扉に付けられた鈴が鳴り、孝治が振り返った。
「あ、どちらさまで――――」
其の動きが、とまる。孝治にしては珍しい態度に、怪訝な思いを抱いた晴海は、入り口に視線を向けて、動きを止めた。
五十六じいさんと、もう1人、強面の顎鬚を蓄えた、大胆不敵な表情を持つ男性。
その男性を見て、孝治は小さく、呟いた。
「親父………」
其の言葉は、不思議と全員に響いた。
森繁 久利。
関東でも屈指の実業家であり、一族を意識して作られた会社で興業を起し成功した男である。年間六十億という年収もあいまってか、世界的にも有名になりつつある人物でありながら、孝治の父親だ。
そう、孝治の父親だった。
「………適当に、飲めよ」
孝治にしては珍しく、ピリピリとした雰囲気。
その中で久利の前にコップを置きながら、対面に孝治が座る。勉強を続けている一団とは少し離れているとはいえ、その緊張感は否が応でも感じていた。
珍しく、子供達が静かだ。それに嫌な予感を覚えつつも、孝治は口を開いた。
「んで、何のつもりだ? 見限った相手のところにわざわざ、それほど暇じゃないんだろ?」
久利は、小さく前を向くと、孝治を見据える。数々の興業を成しえた男の眼差しは、孝治の身体に突き刺さった。
其の口が、動く。
「一通り見せてもらったが、形には成っているみたいだな。あの廃墟同然の場所を此処まで作り直したんだ、たいしたものだ」
久利の言葉に、孝治はまったく表情を変えない。対する久利も、変えていなかった。
気になって勉強にも手を付けられない真理は、対面で座りながら読書する晴海へ、口を開いた。
「ねぇ、晴海っち。コーチ、珍しくピリピリしてるけど………」
真理の言葉に、晴海も視線をあげる。本から視線を外した晴海は、少しはなれて立っている五十六へ向けられていた。
其の眼差しを辿って、残りの三人も五十六を見る。其の眼差しに気がついた五十六は、一瞬だけ驚きの表情を見せるが、身体をこちらに向けた。
「なんだ?」
「………何のよう?」
晴海の言葉に、怪訝な表情を見せた五十六へ、晴海が続けた。
「あの人、なんのようで来たの?」
晴海の言葉に、今度こそ納得した五十六は、改めて二人に表情を向けると、口を開いた。
「あれはな、孝治の奴を連れ戻しに来たんだよ」
「実家に戻ってこないか?」
久利の言葉に、孝治の眉が動く。怪訝な表情を崩さない孝治に対して、久利はコップの水を口にしながら、言葉を吐いた。
「従弟の聡はまだしも、妹の加奈はお前がいないと嫌だと文句を言う。現社長の啓二も私が思うほどの才能は持ち合わせていない」
ふぅ、と息を吐く。テーブルの上にある小さな皿を引き寄せながら、口を開いた。
「手から離して、お前の才能が目に付く。加奈もそうだが、お前を慕う親族も多い。何より、お前の人心把握術は、俺にもないものだ。ある程度のポストも用意してやる。どうだ? 悪くはないだろ?」
久利の言葉に、孝治は鋭い眼差しを向ける。その眼には、明らかな敵愾心が見て取れた。
「大学を辞めた俺を、この牧場に進めたのは、親父、アンタだろ?」
「それが最善だと思ったからだ」
それに、と言葉を区切る。懐に手を入れながら、言葉を続けた。
「俺は、お前に十分な投資をしていたつもりだがな?」
「―――ッ! やっぱりあれは、アンタの金かッ!」
ダン、と、テーブルに孝治の拳が叩きつけられた。明らかに怒りの眼差しを向ける孝治は、言葉を叩きつけた。
「見慣れない口座から多額の金が振り込まれていたッ! 勝手なッ! アンタが適当に金を入れてもな! この牧場は俺の手で経営する!」
「どうやって?」
其の言葉が、静かに響いた。懐から出したタバコを口に銜えると、体勢を崩しながら言葉を続ける。
「牛を生産して利益を出すような施設でもなければ、酪農でやっていくようなつもりでもない。羊を飼っているから羊毛でも売るのかと思えば、品質が悪い上に数が少なく、値打ちも無い。お前はなんだ? 観光業でもやるつもりなのか?」
余りにも、的確かつ当然な疑問を、真っ直ぐぶつけてくる久利に、孝治はたじろく。
「それは――――」
「それとも、お得意の料理屋で経営するつもりか? イニシャルコスト、ランニングコストそれぞれを考えても、利益が出るまで何年掛かる事か。なら、ここでペンション業をやったほうが、まだ儲かる。どうだ? うちの会社で福利厚生として買い取ってやってもいいぞ?」
実業家から見た、森繁牧場。
利益を出す施設は数多くあれど、経営方針のせいで何一つ生かしきれていない。
もし、その施設を生かしきる事ができれば、利益の出る場所になるだろう。それだけの可能性があるこの場所だが、たった一つだけの理由で、其れが潰える。
孝治に、その気が無いと言う事。気が無いと言う事ではなく、その実力がないのだ。
眉を潜めている孝治へ、タバコに火をつけた久利が、言葉を続けた。
「遊びなら、止めろ。大体、レストラン業をやって、牧場はどうする? 1人でまわせれるほど、どちらも甘くない。お前のやっている行為は―――――」
ギロリと、鋭い眼光が孝治を貫く。何を言っても全てを正論で返されそうなその雰囲気に、孝治が動きを止めた。
「無駄だ」
無論、孝治は、自分のやってきたことを無駄だとは思っていない。思ってはいないが、目の前にいる人物は其れを成しえた相手そのもの。
いえる言葉は、何も無かった。
だから、だから――――。
「だから、戻って来い、孝治」
其の言葉に、孝治は。
「断る」
言葉が、響く。
発したのは、他でもない、孝治自身。鋭い眼差しのまま、久利の口元にある灯火に向かい手を伸ばしながら、口を開く。
「俺は、別に利益を求めてるわけじゃない。そりゃ、利益があるならあったほうがいいけど、それだけじゃ、続かない。まだ、夢だってある」
何度も、何度も潰えた夢。手を伸ばしても届かなかった、夢の数々。
だから。
「最後だ、クソ親父」
挑戦する。何度も折れ、何度もくじけたからこそ、叩きつけられる、挑戦状。
「俺がこの牧場で折れたら、アンタのいうことを一生聞いてやる。だがもし、俺がこの牧場の再建をなしえたら―――そんときは、俺の勝ちだ」
孝治の手が、久利のタバコの火を握りつぶす。指と指の間で消えた炎が肉を焼く中、久利は孝治を見据えた。
自分の指に在る、タバコ。その火種を潰した孝治の手を見ながら、久利は改めて、あたりに視線を這わせた。
レストランを一望し、久利はタバコを手放し、皿に放り投げた。
そして、口を開く。
「期限は三年。条件はこの牧場の時価全額を、「この土地の所有者に返す」事だ。時価は後で秘書に伝えさせる。それでいいだろ?」
久利の言葉に、孝治がきょとんとした表情を浮かべた。久利はその場で立ち上がりながら、言葉を続ける。
「約束は絶対に護ってもらうぞ。しばらくやって、駄目だったら、一生ただ働きだ」
一歩、歩き出す。踵を返しながら、言葉を続けた。
「よく冷やしておけ。タバコは臭いになる。禁煙と喫煙どちらかに絞ったらどうだ? 入れた金は自由に使って良い。無くしても、増やしても勝手に、な」
そのまま、久利は五十六に向かって歩き出す。その道中で晴海達の座っているボックス席に近付いた。
一瞥し、不敵に笑う。ややあって、歩き出した。
「五十六さん。いきましょう。どうせ、すぐ終わりますから」
「へ」
久利の言葉に、小さく笑い、従う五十六。そのまま歩き出す二人は、そのまま入り口の扉を、潜った。
最後に、五十六が口を開いた。
「また、飯でも食いにくるぞ? なぁ?」
晴海を見て、微笑む。それに答えるように晴海は読んでいた本を掲げると、五十六はそのまま、歩き出す。
何時の間にか、止まっていたレストランの時間。其れを動かすように、孝治が立ち上がって、告げた。
「ちょっち、冷やしてこないとな」
孝治の指の二つが、赤く腫れていた。
「ったく、タバコは全面禁煙だな。吸ったら賠償金だ」
水で十二分に冷やした孝治の第一声に、箕郷が背もたれに寄りかかりながら、告げる。
「んで? 親とはあんなに対立してんのかよ?」
箕郷の問いかけに、孝治は眉をしかめながら答えた。
「まぁ、基本衝突ばっかだが、悪い親じゃないんだぜ? 加奈には甘すぎる気がするけど、よ」
孝治のボヤキに、真理が驚きの表情を向けて、口を開いた。
「って、いうか、コーチって兄弟がいたんだね」
「ああ、加奈っていう妹がな。一歳しか年が離れてないんだけど、IT分野なら間違いなく天才だよ。ま、晴海よりはどうかと思うが」
孝治の言葉に、晴海は眉を潜めた。そのまま手元にある本に視線を落とすが、孝治も其れに気がついた。
本を指で示しながら、口を開く。
「お前、本が逆さまだぞ?」
本に隠れた晴海の耳が、真っ赤に染まる。そのまま縮こまる晴海の頭に手を押し付けながら、真理が身を乗り出す。
「でさでさ、コーチ。コーチは、このまま牧場やるんだよねッ!?」
「ああ、まぁ、な」
なぜか眼を輝かせている真理に、孝治の嫌な予感が止まらない。孝治の言葉を聞いた真理は、振り返り様に叫んだ。
「だったらさ! 皆で此処にお客さんを呼ぼうよ! そうすれば―――」
「やめい」
真理の言葉を、孝治は止める。振り返った真理の頭を手で鷲づかみにしながら、孝治は全員へ注意を向けた。
「言っておくが、何もすんなよ。レストランだって、立ち上がりはゆっくりじゃないと、早々に身体が潰れちまう。悔しい事に、牧場経営の何たるかも分かっていないんだよ。その勉強も、していかないとな」
孝治としては、これまた悔しい事だが、牧場は客寄せという側面が強かった。もしくは、子連れの家族向けのサービスというもの。
どちらにしても、経営として成り立っていない。なら、成り立てさせる手立てが、どこかにあるはずだ。
それを、探す。それも、孝治の目的の一つだった。
「ま、目処も立ちつつあるから、あとあと考えて行くさ。そう簡単に行くとも思っていないし。あ、そういえば、明日は最後の立ち入り検査だったな。其れが終われば――――まず全部終わらせるか」
ずいっと、掴んでいたままの真理の頭を、テーブルに向けた。空いている手で本をつまみあげながら、真理の眼前でちらつかせる。
「宿題を、な」
孝治の言葉に、真理の顔が崩れた。
「ああう〜〜〜」
情けない声をあげながらシャーペンを持つ真理と、祐樹の首根っこを捕まえて英語の答えを取り上げようとする箕郷。
その光景を見ながら、孝治はふと、思い出した。
「そういや、誠のやつ。音沙汰無いけど、だいじょうぶか?」
二十三日、二十四日と山に篭っていた誠だったが、未だに戻ってきていない。誠なら大丈夫だろうと孝治も考えていたが、流石に心配になってきた。
レストランにこの四人がいるのなら、何か在ったら連絡できるだろう、そう考えて口を開こうとした時だった。
「………おいおい、俺を嘗めてんのか? 孝治」
「誠ッ!?」
其の声が、いきなり響く。驚いたのは孝治だけではなく、他の四人も一緒だった。
大量の荷物を背負った誠は、無精ひげを生やし、汚れた身体で戻ってきた。荷物をレストランの入り口に下ろすと、そのままレストランの中に入ってくる。
カウンターにドカッと腰を降ろすと、大きく息を吐く。その誠に濡れたタオルを渡しながら、孝治はキッチンに向かう。
「さて、何を食べる?」
「軽いもんを。あ、サンドウィッチでいい」
そういいながら、タオルで顔を拭く誠。ややあって、もう一度大きく息を吐くと、今度こそ身体から力を抜いた。
其の横の椅子が、静かに動く。そのまま座ったのは晴海であり、本を広げながら、口を開く。
「それで?」
晴海の臆すること無い言葉に、誠は半眼を向けた。余り話したことのない相手から、ぶしつけな言葉だとは思うが、誠は気にした様子もなく、視線を外した。
「流石、天才同士ってか。気が合うことで」
「お前のほうがぶしつけな言いようだな。違うわ、阿呆」
孝治の言葉に、誠も半眼で返す。やれやれと頭を振りながら、誠は孝治の差しだした皿の上に乗ったサンドウィッチを手にとりながら、答える。
「他の山に比べて、岩石群に見慣れない物質があった。もうちっとちゃんとした施設じゃないと解析もままならないな。広さもある程度あったが、正確な距離と目測は違う。方向感覚も狂いやすいし、コンパスも安物じゃ狂っちまう」
結論、と小さく呟き、サンドウィッチに齧り付くとコーヒーを口に含む。一息ついて、言葉を続けた。
「富士の樹海に近いな。色々不安要素はあるが、それも確信できるものじゃない。へんな祠もあったし、今後はその辺から民話で切り詰めて行くのが定石だろ」
誠の言葉を聞いて、晴海は小さく頷く。話を聞いていた孝治は、眉を潜めながら腕を組み、言葉を紡いだ。
「つまるところ、迷いやすい上に脱出も難しいってことか?」
「まあな。お前みたいに日常的に入って出てこれる奴も、めずらしいさ」
皮肉をいう誠に、孝治が半眼で呻く。唸りながらもキッチンを片付けている孝治に向け、誠は改めて顔を向けた。
「そういや、親父さんが来てたのか?」
「なんで分かるッ!?」
ギョッと驚く孝治に、誠はニヤニヤした表情を浮かべながら、答えた。
「秘書さんから連絡があったんだよ。つっても、本当はお前に連絡したかったみたいだが、携帯持って無いだろ? ここの電話ぐらいは教えておけよ」
「う、むぅ。確かに、それは失念していた」
流石にアポイントメント無しで来るはず無いと思っていただけに、誠の言葉は身に染みた。携帯電話代がもったいないから持たない主義なのだが、利益が出てきたら持ってもいいかも、と思う。
そんなことを考えている孝治へ、誠がさらに言葉を紡いだ。
「それに、その内加奈ちゃんが此処に来るらしいから、覚悟しておけよ」
「加奈が? まぁ、いいけど、何を覚悟しろって言うんだ?」
怪訝そうに小首を傾げる孝治を見て、誠が大仰にため息を吐く。やれやれ、と首を左右に振りながら、言葉を続けた。
「ま、がんばれや」
誠の言葉がなぜか、孝治の耳に残った。それに嫌な予感を覚えながらも、孝治は他の三人に向けて、口を開いた。
「と言うわけだ! 昼までに一教科終わらせることが出来なければ、昼のデザートなしな!」
「「ええ〜〜〜〜ッ!?」」
二人の悲鳴を聞きながら、孝治は笑うのだった。
「あれでよかったのか、久利よ?」
帰りの軽トラックの中、五十六の口が動く。運転に集中している五十六の言葉に、久利は視線を遠く離れて行く牧場に、向けていた。
その久利の横顔を見ていた五十六は、小さく笑う。スピードを少しだけ落とした後、言葉を続けた。
「土地の所有者、ね。あの土地は、あの二人の遺言で、孝治のものだと決まっているはずだろ?」
「………ふ」
小さく笑い、久利は背もたれにもたれかかる。腕を組みながら、小さく笑った。
「俺の言葉も事実、アイツには才能がある。人心把握もそうだが、何より行動力、実力もな。まず間違いなく、うちの一族でも最高の才能を持ってるよ」
ただ、と言葉を区切った。難しい表情を崩さず、残したまま、口を開いた。
「その才能が、ことごとく潰れてる。サッカーはまだ事故で片付くが、絵画も正当に評価されていない。それどころか、うちの経営も傾いていたが、孝治をあそこに入れてから、右肩上がりだ」
久利の言葉に、五十六も厳しい表情を浮かべる。その横顔を見据えた後、久利は相好を崩した。
「何かが、あそこにあるとしても、三年も経てば、何かが分かるかもしれない。誠君も動いているようだしな。そうすれば、あそこは良い場所になる」
久利にはあの場所は、どのように映っているのか、五十六には分からない。あのまま続けさせるつもりなのは分かるが、福利厚生施設として使おうとしているのか、そのままやらせるつもりなのか、分からない。
だからこそ、五十六は笑う。
「―――親馬鹿だよ、お前は」
「知っている」
こういった場所は、親譲りなのだと、五十六は思った。
晴海、真理、箕郷、祐樹の四人が帰った後、レストランを片付け、牧場の牛達、羊達の世話と明日の準備を終えた孝治は、ようやく一息ついた。
夜の一時過ぎ。自宅に入って電気をつけ、ポッドの中に水を入れながら、小さく息を吐く。
「………結構、形に成ったな」
窓の外を眺めながら、孝治は呟く。此処に来てもうすぐ二ヶ月、友達や仲間の手伝いも在って、森繁牧場は見た目だけなら、完全に牧場になりつつあった。
孝治自身、此処を不思議な場所と思ったことはない。ごくありふれた土地であり、逆に自然豊かな場所でもあった。
窓の外には、月光に照らされた牧場が映る。まだ寝辛い時期が続くが、湿気の多い此処は、さらに幻想的な風景を映し出していた。
ふと、視線を入り口近くにある物置に向けた。
そこに掛けられているのは、この牧場を書いた線画。色もまだ塗っていない、未完成のその風景画は、まだ牧場の建物しか書かれていなかった。
これを書く日が、また来るのか。
眼を閉じながら、孝治は微笑む。
どちらにしろ、今は―――――とても楽しい。
しかし、孝治はこのとき、知る由も無かった。
此処は確かに、不思議な場所だと言う事を。
面白かったら拍手をお願いします。