八月 二十一日。

 

 昼頃。

「と、いう訳で、キャンプだ!」

 孝治の宣言と共に、元気な掛け声が響き渡る。空は快晴、澄み渡る青空の下で、孝治は改めて周りを見わたした。

 晴海と真理と、箕郷と祐樹。いつもの面子に向かって、孝治が口を開く。

「お前ら、親御さんに連絡はしたんだろうな? 黙っていったら、心配するぞ?」

 牧場は、いつもと違い、牛達がいない。餌はある程度入れてあるし、夕方には五十六じいさんが手伝いに来てくれるので、特に心配はない。

 レストランは、とりあえず休業。開業に必要な保健所の許可は、もうすぐ降りることになっているので、本格的な休みは、これぐらいだ。

 これからは、もう生き物相手の仕事なので、休みはなくなる。覚悟するにも、ちょうどいいイベントになるだろう。

 テントの道具一式を、背負う。食材は祐樹、食器は箕郷と真理で別々に持つ手はずになっていた。

 着替えは、各自持参。必然的に持ち物が多くなったが、着替えなどは孝治の家などに置いておいて、山から降りてきたときに着替える方法もあるので、最終的にはそれほど多くなくなったのだ。

「って、お前は何持ってんだよ?」

 その中でも一番大きな荷物を持っているのは、意外にも晴海だった。晴海は、孝治の二倍近くの荷物を持っているようで、無表情な顔にはじっとりと汗が浮かんでいた。

 未だに歩き出してもいないのに、汗をかくほどの荷物を持つ晴海。箕郷の言葉にも頑として答えない彼女の背中に、孝治が回りこみ、そのリュックに手を突っ込んだ。

「………置いていきなさい」

「………いや」

 晴海のリュックの中には、着替えなど一つも入っておらず、代わりに、満タンに詰み込まれた本があった。

 意外、ではないが、晴海は意外と頑固だ。孝治の言う事は比較的聞くほうなのだが、ここは聞かないらしく、抵抗の眼差しで睨んでいた。

 嫌な予感が止まらないが、孝治は何も言わなかった。

 次に真理だが、こちらは孝治の言う事はきちんと聞き入れるほうなので、用意は普通だった。若干遊び道具が多いようだが、これなら自分で最後まで運べるだろう。

「………」

「どうしたの? コーチ?」

 羞恥心が無い、という最大の欠点が無ければ、だが。

 孝治の視界には、満面の笑顔で荷物を広げている真理の姿が在った。荷物を広げてくれるのはいいのだが、その中には勿論下着というのもあって―――祐樹は眼をそらしていた。

 とはいえ、子供相手に思うことなど無く、孝治は口を開いた。

「下着とかはせめて、何か小さい小物入れに入れて置け。雨が降ってきたときなんかは、濡れないですむからな」

「あ、なるほど」

 孝治の言葉に、納得してリュックに入れなおす真理。彼女のために用意しておいた(予想もしていた)パックを渡し、それに下着を入れさせる。

 荷物を詰め直している真理を背に、孝治は唯一の安らぎである祐樹へ、声をかけた。

「んで、祐樹は?」

「あ、いえ、僕は必要になるかな、と」

 祐樹が広げた荷物には、主に救急用の医療用具とランプ、永久方位磁石とサバイバル本など、逆にやりすぎではないかと思うぐらい、用意周到だった。

 問題は、自分の荷物が少ない点だが、男である以上、構わないのだろう。

「っていうか、他の二人と足しても尚足らないな」

「ふふふ。それなら、私の荷物を―――」

「さぁ、行くか!」

「見ろっ!」

 何故か自信満々の箕郷を無視して、進もうとする孝治。叫びでとめられた孝治は、若干眉をしかめると、口を開いた。

「まず、山をなめるな」

「んだと? コラ?」

 メンチを切ってくる箕郷だったが、孝治の言葉が最もなのか、他の皆からも非難の眼差しが向けられていた。

 箕郷のリュックの中には、数々の罠や武器など、戦争に行くような用意がされていた。ナイフや催涙剤入りの小さな小型爆弾など、一つの銀行を制圧できるような準備がされていた。

 問題は、それ以外が無いという事。

「お前、せめて水ぐらいもってこいよ」

「お前が持ってくだろ?」

 孝治の言葉に、事も無げに答える箕郷。実際にそういうことになるのだが、そういわれると頭に来る。

 とはいえ、孝治は大人。テントや食料、料理に必要な道具や万が一の道具全てを用意しつつ、自分の最低限必要な着替えは用意していた。

 つまり、大荷物。担ぐと背中は勿論の事、後ろから前が見えないほどの荷物だ。

 荷物を持ち直した孝治は、首を振りながら、口を開いた。

「ま、いいか。ほら、行くぞ?」

 孝治は見上げ、続けた。

「あの山=Aへ」

 

 

 

 今日も、真理はあの場所へ行った。電話して確認したから、間違いない。

あのお母さんの話によると、二泊三日で森繁牧場に泊まるそうだ。心配ではないですか、と尋ねたのだが、戻ってきたのは信頼の言葉だった。

 あのお母さんが此処まで信頼する、あの男。

 なぜ、あの男について行くのか。

 なぜ、あの男を選ぶのか。

 眼を、覚まさなければ、ならない。

 戻ってくるまで、に。

 あの山=Bこの地域では禁忌と呼ばれるあの場所。

俺は、あの場所へと、向かっていた。

 

 

 

 

「そういえば、この裏山、入るのは初めてだな」

 箕郷がふつふつと切り出した言葉に、孝治も適当に返した。

 裏山は真夏だというのに、涼しかった。森の匂いにひんやりとした空気が涼しく、避暑には丁度良かったが、誰もがそうだというわけではなかった。

「………寒い」

「結構な薄着だしな。ほら、これ貸してやるよ」

 半袖に短パンと動きやすい服装である晴海では在ったが、此処まで涼しいと逆に寒くなってしまう。

荷物の中に長袖を入れておいた孝治は、其れを引っ張り出すと、晴海に貸してやった。

其れを着込んだ晴海は、ぬくぬくとしている。それでどうにかなるか、と予想した孝治へ、真理が非難の声をあげた。

「コーチ! 晴海っちだけずるいよ!」

「あれ一枚しかないんだ―――っていうか、お前、こういう時ぐらいボールは置いて来いよ」

 非難の言葉に振り返った孝治は、あきれ返ってしまう。

真理は器用にもボールを頭の上に乗せながら、山道を歩いていたのだ。足元がおろそかになるから、と注意した孝治に、真理はしぶしぶ、といった形で了承した。

 其の時、今まで黙っていた箕郷が、口を開いた。

「そういえばよ。お前、男に混じってサッカーしたことあるよな。そんなにサッカーが好きなのか?」

 箕郷の言葉に、リュックの一番上にボールをくくりつけていた真理が、答えた。

「勿論! だって、好きだもん♪」

「好きだもん、って、お前な………」

 若干呆れた様子を見せる箕郷だったが、その顔には薄い笑みが張り付いていた。ややあって、もう一度口を開く。

「でもよ、好きになった理由って、あるのか?」

 箕郷の言葉に、真理は「え?」と珍しくキョトンとした顔を見せた。その箕郷に続くように、ずいっと身を乗り出した晴海が、声をあげた。

「………私も、気になる」

「そういえば、気になるっちゃぁ、気になるな」

 孝治の言葉を聞いた真理は、恥かしそうにポリポリと頬をかくと、ちらちらと孝治を盗み見た。盗み見たといっても、全員の視線を受けているだけあり、全員気がついていた。

 やがて、口を開いた。

「理由は、とっても小さい頃見た、あの光景かな?」

 真理は表情をゆがめると、口を開いた。

「森繁牧場で、なんだけど………」

 バッと振り向いた全員の視線に、其れを全身で受けた孝治が、自分を指差しながら、呻く。

「え? 俺?」

「ううん、違うと思うよ」

 真理にしては珍しい、苦笑。それに続いて放たれたのは、寂しげな言葉だった。

「多分あれ、コーチのご家族だと思うんだけど………ほら、筋肉モリモリのおじいさんと、とっても綺麗な女の人!」

 その二つを聞いて、孝治は思い至った。

「じじいとばばあ、だ」

 

――――その頃の森繁牧場は、誰も近付かない禁忌の場所だった。無論、そんなことを知らない子供はよく遊びにきたし、そこに住んでいた夫婦は子供の面倒を良く見ていた。

 夕日に照らされた牧場で、丸い球体が子供達の間で飛んで跳ねていた。

 操っていたのは、初老の男性。満面の笑顔で、子供達から漏れる感嘆の声。

「かっこよかったなぁ。ボールが生きてるんじゃないか、って思っちゃうぐらい、綺麗にボールが動くんだもん!」

 今でも思い出すだけで、身が震える。

サッカーだけではない。異国の文化といえるものは何でも吸収し、体得してきた森繁夫婦は、他の子供達にも大人気だった。

「………つうか、何年前の話だよ? あのじじいとばばあ」

 孝治の記憶が正しければ、森繁牧場が使われなくなったのは、十五年前。時期的に真理が生まれているか居ないか微妙な時期だが、あの二人の夫婦の場合、常識が通用しないのだ。

 深く考えることもなく、孝治は話を聞いていた。

「で、近くの高校の男子全員で掛かっていっても、一回もボールを奪えないんだよ!? 凄いんだって! タックルだって避けてるし!」

 若干興奮し始めた真理を、孝治は宥める。分かったわかった、と理解を示しながら、顔を前に向けた。

「あの夫婦の凄さは、十分知ってる。はっきり言って、あれは人間じゃねぇ」

 熊を二人で狩った、という噂があるぐらいの人物だ。今更何が起きたところで驚くようなものではない。

 やれやれ、とため息を吐きながらも、孝治は頬が緩むのを隠せなかった。

 無論孝治も、森繁老夫婦の事が気に入っている。余り面識が無いとは言え、孝治もまた、あの老夫婦にほれ込んだ一人なのだ。

 孝治は、ほんの少しだけ誇らしげに、顔をあげた。

「ま、とにかく、行こうぜ」

 ―――一時間ほど、歩いただろうか。

「ほぉ。完全に森の中だな」

「鬱蒼としてきた」

 孝治と晴海の言葉通り、山道はどんどんと深緑濃くなり、道も獣道になり始めていた。斜めに登って行く道ではないが、山を登って行くような感覚に陥るほどだ。

「な、なぁ、ちょっと休憩しようぜ、ぇ」

 悲鳴をあげたのは意外にも、箕郷だった。てっきり晴海が言い出すのでは、と思っていたが、当の本人は孝治の横で涼しい顔をしている。

 ばてている箕郷を見て、孝治は顔をあげた。気温も、登りだしたのが朝早かったからか、涼しい場所を完全に抜けて、若干暑くなり始めていた。

 あたりに視線を向けると、丁度少し上った先に開けた場所があるのが見えた。そのあたりに指を向けながら、孝治は口を開く。

「なら、あそこで休むぞ。休憩したら、すぐに再開な」

「了解了解了解」

 適当に言葉を返しながら、箕郷は指差された先へと向かう。その箕郷を追い抜き、一番を目指すのは一番元気な真理、其れに続くように祐樹、晴海と続いていった。

 上を、見上げる。澄み渡るような青空に、雨の心配はないというニュースを思い出しながら、孝治は胸中で呟いた。

(家から森の奥の川辺まで、あと三十分ぐらい、か。天気も大丈夫そうだし、このまま続行、か)

 子供達を預かる上で最も重要なのは、安全性だった。雨が降っても大丈夫なように人数分の雨合羽は持っているし、いざという時の非常灯、連絡手段もきちんと用意してある。誠にも連絡してあるので、万全だ。

(しっかし、人見知りしない子供達だよな)

 視界に見える真理と祐樹、箕郷の誰をとっても、人見知りはしない。夢に破れ、挫折ばかりを味わった自分には、素晴らしいものに思えた。

 其の時、クイクイと、孝治の腕が引かれた。視線を落とすと、其の先では晴海が三白眼で見上げ、小首をかしげていた。

「………孝治?」

 はっきりとした、心配の色。自分を心配してくれている小さな友人の頭へ、手を置いた後、小さく笑った。

 くしゃくしゃと撫で上げながら、答える。

「おうよ。行くぞ?」

 やっぱり自分も子供なのだと、理解した。

 

 

 

 手段はそう、難しくない。

 親父の車から非常用のガソリンを入れる携行缶を取り、ガソリンスタンドでガソリンを買うだけだ。子供の値段でも、十分な量が買える。

 問題は、人目に付きやすいという事。なので、家の車からガソリンを抜き出す手段をとった。

 次に、百円ショップでライターと花火を買った。花火を買ったのは、ライターだけを買うのは不自然だと思ったから、だ。

 まだ、だめだ。

 中学生がそんなものを持っていれば、いやでも目に付く―――が、場所はあの場所=A地元の警察も気にしない。

 だって、殺人事件があってもろくに捜査されない場所だったから、だ。

 心臓が、高鳴る。あの場所さえ無くなれば、間違いなく真理は戻ってくる。

 決行時間は、今日の夜。天気予報では晴れ、まず間違いなく、成功する。

 空は其れを示すように、青空だった。

 

 

 

 

「ほほぉ。ここが、例の」

「そう、例の」

「れいれいれいれいれ〜♪」

 箕郷の言葉に、孝治が続き、真理が嬉しそうに笑う。

 視界の先には、真っ白な河辺と小波の流れる音と清流。チャポン、と魚の跳ねる音が響き、遠くでは水の落ちる音がかすかに聞こえた。

 河の辺、石の敷き詰められた場所から少しはなれた場所に荷物を置きながら、孝治は言葉を続けた。

「向こうには滝まであるぜ。近くに湧き水まであるし、特に問題はないと思うぞ?」

 そういいながら、孝治は荷物の中から何かを取り出す。

 医療キットのようなツールボックス。それに気がついた真理が跳ねるように孝治へ近付いてくると、叫んだ。

「コーチ! 何これッ!?」

「水質調査キットだ。誠から借りた」

 事も無げに答え、調査を開始する孝治に、晴海が眉を潜めた。

「………何をやってる人?」

「―――はい?」

 突然の問いかけに、孝治が怪訝な表情を浮かべた。それに続くように真理、祐樹も声をあげる。

「そうだよね。キッチンの道具も用意してくれたし、なんでもしてくれたしね」

「いい人ですよね。でも、何の仕事をしているんですか?」

 三人の言葉に、唯一理解していない箕郷が声をあげた。

「おいおい、誰の話だよ!」

「ああ、箕郷っちはまだあったことが無いんだね」

 真理の言葉に、孝治もなるほど、と頷いた。思えば、箕郷だけ誠とあっていない。

 そうだな、と小さく言葉を区切ると、孝治は答えた。

「――――探偵、かな?」

「「「はい?」」」

 晴海以外の三人の言葉に、孝治は乾いた笑いを浮かべた。小さく微笑むと、言葉を続ける。

「いや、それ以外に言葉を考えられないな。何でもこなすし、好きなことをするし。あ、いや、あいつは好きなことをして生活する天才だな。探偵も、ただの名ばっかりだし」

 孝治の言葉に、箕郷が言葉を返した。

「へぇ〜〜〜。この世の中には、奇特な人間もいたもんだねぇ」

 何時の間にか眼鏡をかけていた箕郷に、孝治は答えた。

「お前だけには言われたくないよな」

「其の言葉、そのまま熨斗(のし)付けてお返しするぜ」

 箕郷の物言いに、周りから笑いが起きる。その笑いに不服そうな表情を浮かべる孝治だが、もはや何も言う事は無かった。

「とりあえず、お前は危ない」

「何だよ。別にいいだろ」

 サバイバルナイフにしては大きすぎる、ナイフ。其れを手のひらの上でクルクルと回しながら、口を開いた。

「お気に入りの一本だ。軍用で開発された奴で、残念ながら刃は潰して在るけど、格好いいだろ?」

 偉そうに胸を張る箕郷の頭を孝治はつかみ、持っているナイフをひょいっと奪うと、口を開いた。

「今はそんなものでも掴まるんだぞ? というわけで、没収」

「お、おい! 返せよ!」

 バタバタと孝治から取り返そうとするが、孝治はさっさとテント張りに向かって言ってしまった。

 ぶぅ、と不満そうな音を出す箕郷だったが。

 熱い真夏の空気を冷ますような、水飛沫。何時の間にか靴を脱いで浅瀬にはいっている真理が、声をあげた。

「箕郷っち、祐樹っち! 晴海っちも、こっちでバレーやろうよ!」

 浅瀬で跳ね回る真理の言葉に、すぐに表情を変え、向かう。下着の類は多めに持ってきているので、問題無いのだ。

 靴を脱いで、箕郷も浅瀬に脚を入れる。ひんやりとした水だが、外気は茹だるような暑さなので、丁度良かった。

 跳ね上がる三人を見ながら、孝治はテントの中心を立てる。祐樹には三人の世話を頼んでいるので、邪魔も入る事無く、順調に組み立てて行く。

「―――大丈夫?」

 ふと、囁くような声が聞こえた。視線を向けるとそこには、本を片手に持った晴海が、立っていた。

 テントの準備を一度止めて、孝治も答えた。

「お前こそ、何してんだ? さっさと混じってこいよ」

「運動、嫌い」

 にべも無く切り捨て、晴海はチョコチョコと孝治の作っているテントの中に入る。半眼で其れを見届けた孝治は、気にせずテントを作りあげた。

 二つのテント(一つは孝治の部屋のもの)を作り上げると、孝治は再度、荷物を漁りだした。

「コーチ! 何してるの〜?」

 水辺で遊んだ跡のある真理の言葉に、孝治は振り返りながら答えた。

「ほら、釣りだよ、釣り。お前たちもやるか?」

 真理に続いて戻ってきた箕郷と祐樹にも、声を掛ける。其の頃になってようやくテントから顔を出した晴海にも、釣竿を見せた。

「晩飯の用意は出来ているけど、魚も欲しいしな。どうだ? 面白そうだろ?」

 孝治の言葉に、真理は一番に跳ねながら答えた。

「やる!」

「う〜〜〜ん、まぁ、ねぇ。こんなところにこないとやらないよなぁ」

 渋々、といった様子で答えたのは、箕郷。だが、乗り気な真理よりも早く竿を奪うと、そのまま河に向かって歩いていった。

「………あいつって、意外と参加率いいよな。きっと、寂しがり屋だ」

「ハハハ」

 祐樹は苦笑しながらも、小さめの竿を持ち上げ、晴海に顔を向けた。

「僕達は、ハゼ釣りをしようか?」

 祐樹の言葉に、晴海はちょっとだけ押し黙った後、小さく頷いた。珍しく晴海と行動できることになった祐樹は、逆に驚きながらも、二人で向かった。

「じゃ、コーチは私とだね♪」

 嬉しいのか、真理は孝治の背中に抱きつく。その真理に苦笑しながら、孝治は荷物を纏めた。

「コーチ、何を釣るの?」

 ぷらぷらとぶら下がる真理を引きずりながら、孝治は河に向かう。

「鮎、だな。まぁ、雑魚釣りだから、何が釣れるかはお楽しみだ」

「おおお、凄いねぇ」

 よじよじと、孝治の背中を昇った真理へ、孝治は半眼を向けた。

「お前、そこ退けよ。重い」

「ははは!」

 楽しそうに笑う真理。それに苦笑しながら、孝治は釣り場となる川辺へ、座った。

 座ると同時に、真理が飛び降りてくる。孝治から竿を預かると、ものめずらしそうに竿を眺めた。

「コーチ、これってどうやって投げるの?」

「其の前に、餌を付けろ。まぁ、虫団子だが」

 浮き輪と針までの長さを調節し、餌をつけて水面に垂らす。その一連の動作を教え、浮き輪がプカプカと浮いた後、静寂が訪れた。

 晴海と祐樹は、遠くで離れて釣りをしている。その更に向こう側で、暴れるように竿を振り回す箕郷の姿が、見えた。

 静かだな、と小さく呟いた時、真理が口を開いた。

「コーチ。今日は、ありがとう」

 真理の言葉に、孝治は顔を向けた。自分よりもかなり小さい少女は、まっすぐと浮き輪を見たまま、口を開いた。

「毎年、懇親会があるんだけど、私、いやなんだ。懇親会って言っても、ね。小学校の時の親の集まりで、さ。友達も一緒に来るから」

 其れは、今日の出来事の発端となった懇親会の、事。

 其れを聞いた孝治は、何気なしに言葉を返した。

「小学校の友達は、嫌いか?」

「ううん。嫌いじゃないよ」

 孝治の問いかけには、否定の言葉。しかし、その後に続く言葉は、悲しげだった。

「でも、皆、口をそろえてこういうんだ。「お前、まだ子供だよな」「まだ、サッカーやってるのか?」「女子サッカーなんて、おままごとだよ」―――って」

 真理の言葉に、孝治は言葉をなくした。

 中学生。人生の中で一番、男子と女子の差がはっきりと生まれ、それぞれの趣味やスポーツが決まり、白黒分かれる時代だ。

 別に、サッカーが男だけのスポーツではないのは、確かだ。しかし、サッカーとして有名なのは、間違いなく男性向けのものだった。

 女性でサッカー好きは、マネージャー、もしくは女子サッカーに入る。男子サッカーに入り、その男子に負けない真理は、確かに異端だった。

 いつもは明朗活発な彼女にはない、落ち込んだ声音。あえて彼女の顔を見ない孝治へ、彼女は続けた。

「分かるんだ。いつまでも男の子と戦えない、って。胸だって大きくなってくるし、男の子は身体が強いし。コーチに教わってるから、なんとか競えているけど―――」

 すっと、顔を上に向ける気配が、感じた。

これ以上何かを言おうとしているが、言葉を発せない、真理。その気配を察した孝治は、視線を上へ向けた。

 やがて、口を開いた。

「確かに、今までの女子で、どの男子よりも上手かった奴なんて、居なかったかもしれない」

 なら、と言葉を区切る。

「お前が、なればいい」

 

 

「―――世界の偉人って言うのは、いつだって人類初だ。気がつかなかったことに気がついたり、出来なかった事が出来たり、な。男子よりも上手い女子は、「今は」居ないかも知れないが、いつかは、出てくるだろ?」

 静かに、真理へ視線を向けた。くりくりとした眼を向けてくる真理を真っ直ぐ見て、孝治は告げた。

「こっぱずかしい話でも、お前が本当に目指しているなら、俺は笑わない。全力で頑張るやつを笑えるほど恥知らずでも無いし、応援だってしてやるさ」

 頬をかきながら、孝治は、告げた。

「夢に敗れた俺だから言えるけど、挫折は味わっておけ。挫折して、挫折して、それでも止めないからこそ、続けるからこそ、好きだっていえるだろ? 間違いなく、俺はそうだ」

 画家という夢が破れ、何もできなくなった孝治だからこそ、言える言葉。挫折の果てに見つけたこの場所で、小さな夢に与える言葉は、一つだ。

 

「頑張れ」

 

 率直でこれ以上無いほど、素直な言葉。

 孝治の言葉に、真理は。

「――――〜〜〜〜ッ!」

 込み上げる何かが、背中を伝う。顔が一気に紅くなり、心臓が跳ね上がった。

 バシャ、と竿が水面に付く瞬間、孝治の左腕に柔らかな感触が走った。

「うんッ!」

 見てみると、真理が孝治の腕に抱きついていた。真理の突発的な行動には慣れつつも、今までとはちょっと違う様子の真理に、戸惑う。

 その時だった。孝治の竿に、僅かな感触が走った。

「コーチ! 引いてる引いてる!」

 真理の言葉に、孝治が慌てて竿を引き上げた。僅かな感触と共に、一気に引き寄せた竿が引かれ、川の中へと引き込まれた。

 其れを真理が抑え、引き寄せる。一気に引っ張りあげた竿の先には、イワナが繋がっていた。

「二匹もかよ!」

 冗談半分でつけた二つの針にそれぞれ、二十センチ近くのイワナが繋がれていた。

 

 

 

 

「ち、坊主かよ!」

 箕郷が何も釣れずにテントの近くまで戻ってきた時、前よりも元気になった真理が目に付いた。こちらも坊主で三白眼がはっきりした晴海と、こちらは四匹釣れて晴海から喋りかけられなくなった祐樹の姿が在った。

 時刻は、夕方。まだ明るいが、熊避けの器具にスイッチをいれた孝治は、全員に顔を向けた。

「ほら、そろそろ晩御飯の準備だ」

 孝治の言葉に、真理は嬉しそうに同意し、箕郷が不敵に笑う。晴海は不機嫌そうに本を読んでいるが、若干楽しみなのか、脚が震えていた。

「俺が作ればそれはもう上手くなるが、今回は手をださん! カレーは三人娘担当で、祐樹は米を炊いてくれ。俺は魚の調理と、そのほかの準備に回るから」

 孝治の言葉に、一瞬だけ困惑の色が走る、が、孝治は話も聞かずに歩き出していた。

 孝治は、持ってきた道具を使い、食事をする場所を作る係りだ。

水質は保障されているので、河で米を洗う祐樹の背を眺めながら、箕郷が口を開いた。

「さて、どうしたもんか。私はお茶しか淹れられないしな」

 箕郷の言葉に、真理が唸った。

「料理はだめだなぁ。晴海っちは?」

 真理の言葉に、晴海は本で口元を隠すと、顔をあげた。その本からずいっと指を出すと、口を開いた。

「料理は………嫌いじゃ………ない」

 自分で弁当を作るぐらい、晴海は料理が得意である。「ただ」、と言葉を区切ると、口を開いた。

「―――大衆料理は、苦手」

 つまるところ、量を作る料理は苦手との事。本を見て、小鉢料理のようなものは得意なのだが、その一人分の料理とは違い、大量の料理を作るときの味加減が、よく分からないのだ。

 晴海の言葉に、箕郷が唸る。顎に指を当てながら、口を開いた。

「人数分を作るとしたら、五人分だな。ぶっちゃけ、分量を倍にすればいいんじゃないのか?」

「………それで、いい」

 箕郷の言葉に、晴海が同意する。そうと決まれば早く料理に取り掛かろうと、真理が荷物の中から色々と食材を取り出し始める。

 携帯用のまな板を取り出しながら、口を開いた。

「そういえば、鍋とか全部用意してあるけど、火はどうするの?」

「やっぱ、焚き火じゃね? そこらへんの木材用意してよ」

「………囲いを、作る」

 女の子らしく、煌びやかに料理を開始する三人を背に、飯盒で米を洗っていた祐樹が、手を止めた。

「………………四人分?」

 飯盒の人数を見て、動きが止まった。

 

 

 

 

 

 ヒグラシの啼く頃、雅人はその牧場へ、来ていた。

 牧場からは今さっき、軽トラックが出て行った。あれが五十六じいさんのものだという事は、すでに理解している。

 この後、森繁牧場には誰も来ない。来たとしても、もう手遅れだ。

 ガソリン携行缶を持って、牧場の中に入って行く。静まり返ったこの場所は、徐々に赤みを帯びて、静まり返ってきた。

 時刻は、六時半。もう少しで消防団の見回りが終わり、倉庫に入るころだ。

 消防団の倉庫は、街の小学校近く。どんなに早く見つかって通報されても、手遅れだ。

 ガソリンを、ばら撒く。建物の周りをぐるりと回し掛け、そのまま芝生へ缶を投げ入れた。

 どうせ、炎で全てが掻き消える。証拠なんて、絶対に見つからない。

 ライターを、ポケットから取り出す。しばらく其れを眺めた後、屈んだ。

 これで、真理が戻ってくる。雅人にはその考えしか、無かった。

 悪も正義も、関係ない。

 ――――少年の心を示すように、炎が舞い上がった。

 

 

 

 

 


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